旅人くんの論理・そのばしのぎの対談<岡田・唐沢版黄色い涙>

唐沢俊一×岡田斗司夫『オタク論2!』<男のホームレス化 女の腐女子化>より

岡田 昔竹熊健太郎さんが、オタクがオタクとして生きていくためには、もしくは近代的自我を持った人間が生きていくためには、「旅人の論理」である、と言っていたことがあるんですよね。
この世の中にどこか定着する場所があると思い込まずに、旅人であると思って生きていく、ということを言っていて、それを聞いたとき僕は良い言い方だなと思ったんです。だけど今、それがネガティヴになっているんです。みんな現実の世界を旅だと思っているからですよ。だから学校でやっていることが将来自分にどういう影響があるか考えないし、ごまかせることは全部ごまかすし、ゴミもすべて適当な場所に捨てていく。これはすべて「旅の恥はかきすて」だからなんです。
なぜかというと、理想社会というのはネットと現実の間のどこかの皮膜にあると思っているんですよ。ネットでも全部理解されるとは思わないし、現実でも認められると思わないんだけど、どこかに理想の社会があるんだろうと思って、少なくとも現実の世界はそれのはけ口になってしまっているんですよ。

唐沢 「旅人の論理」の原形は文化人類学における「ノマド理論」ですよね。本来は流浪の民が異文化交流をもたらしてさまざまな文化を豊かにしていく、という理論を、流浪の民側に視点を移したもので、最初聞いたときには、ずいぶん身勝手な理論だと思ったものだけど(笑)、それが今は恥のかき捨て場という、さらに身勝手なものになっている。
岡田 竹熊さんが言ったのは、強者の論理ですよね。強い人はそうできるかもしれないけど、弱者である一般の人がやると、旅の恥はかきすてになってしまうんですよ。
唐沢 そもそも、“どこにも所属するな”と主張する哲学者であれ現代思想家、作家、クリエイターであれ、みんな強者なんですよね。彼らは人は一人で生きられるはずだと言っていて、でも世の中の99%の人は何かに自分のアイデンティティーを預けないと生きていけない。「自分って何?」という答えすら出していない人がほとんどなわけです。そういう人がこの現実世界の軋轢をどう耐えて生きているかとうことには、まだ全然答えが出ていないんですよ。
こんど幻冬舎新書でUFO論の本(引用者注:『新・UFO入門』のこと)を出すんですけど、それは一種の弱者論なんです。と学会やジャパン・スケプティックスの“強者”たちがいくらUFOは存在しないと言っても、人間はUFOを見てしまう。この社会でないどこかに自分を預けるというのを、近い未来に宇宙人がやってくるというところに仮託してしまう。

『新・UFO入門』騒動が、穿った見方をすれば唐沢俊一という個人を被験者とした弱者論のケース・スタディだという深遠な意味なら分からないこともないけど。“強者”のライターたちがいくらG&Pを戒めていても、“弱者”唐沢はしてしまうという。いや、強弱の問題じゃないけれどね。
ご存知のように、「旅人の論理」は竹熊健太郎『私とハルマゲドン』で西江雅之が提唱したものとして出てくる。またこれが岡田斗司夫竹熊健太郎との'97年頃のエヴァがらみのいざこざでも出てきて、ネットでもここをたどれるhttp://netcity.or.jp/otakuweekly/PRE0.9/TR8.html。それでいま、この辺の流れが問題になっていると……唐沢俊一の悪口の技術。 - 唐沢俊一検証blog
「旅人の論理」の要旨はこちら旅人の論理 - クリスマスの歌なんか聞こえないの引用が簡潔にまとめておられるので、それに倣います。

 人間が生活するためには、結局なんらかの組織に依存する仕組みになっている。完全な自由(わずらわしい人間関係からの解放)なんてものは、幻想だということだ。(略)
 その頃、おれは東京芸大によく遊びに行っていた。(略)そのとき偶然ながら、文化人類学者・西江雅之氏の授業を聴いたのである。(略)
「あなたたちは芸術家の卵だから、自分を取り巻いている鉄格子のような価値観から逃れて自由になりたいと思っているでしょう。(略)では、その檻を出たらどうなるのでしょうか。そこにはきっとまた別の檻があります。この檻がすなわち文化です。人間社会というのはジャングルジムのように文化という檻が無限に連鎖している。人間が人間である以上、そこから脱出することは不可能です。では、そこで自由を求めるならどうすればいいのか。唯一、人間に許された自由を享楽する方法は、そのいくつもの檻と檻の間を行き来することです。檻から脱出することは無理でも、檻から檻に移動することは可能です。つまり、旅人になるのです」
 これこそは以後のおれに決定的な影響を与えた「旅人の論理」である。

ところで話の大前提として『オタク論2!』おふたりの主旨を汲むにおいては、「旅人の論理」があまねく世間に流布されていなければならない。「旅人の論理」に影響された一定の思潮だかライフ・スタイルだかがあって、それがいつからら「ネガティヴになって」モラルが腐敗し、現在の大きな問題となってしまっている、という話だからだ。そして「ご存知のように」とか書いていてナンだけれど、「旅人の論理」は、竹熊ファンや『私とハルマゲドン』を読んだ人あるいは西江雅之からじかにこの話を聞いた人にとっては周知のことだろうが、それ以外の一般にはほぼ知られていない、今のところ名も無き理屈でしかない。たとえ「みんな現実の世界を旅だと思って」いるような状況が確認されようが、そのことと「旅人の論理」に関係はない。ゆえに、これを使って世相を斬ってもほぼ説得力を欠くことになる。
そして、1997年のエヴァがらみのいざこざにおける岡田斗司夫のいいわけで、この「旅人の論理」は竹熊の意図したものとはかなりズレた使われ方をされていた。そのことへの反論として、上記「旅人の論理」は『私とハルマゲドン』から引用され岡田にレクチャーされていたのだけれど、10年後のこの対談でも相変わらずまちがった解釈がなされており、残念ながらけっきょく岡田斗司夫への懇切丁寧な教育的指導は実らなかった。それと繰り返しになるけど、前回も今回も岡田はこの話のときどうしてすぐ「強者」「弱者」って話に持ってって、相手(竹熊)を無理やり「強者」に仕立て上げ、自分のほうを「弱者」にしてエクスキューズするのかね?ちゃんと向き合って話せない事情ってもんがあるんだろうか(あるんだろうね)?
唐沢のいう<「旅人の論理」の原形は文化人類学における「ノマド理論」ですよね>というのもよく分からない。西江の「旅人の論理」が「ノマド遊牧民)理論」の変形なのかどうか、唐沢が西江に確認してこう断じてるならまだしも、そもそも唐沢に「ノマド理論」が把握できてるのかもあやしい。

オタク論2 !(2)

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旅人くん

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私とハルマゲドン (ちくま文庫)

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