『オタクはすでに死んでいる』への助走―アキハ、バラバラ(11)
『趣都の誕生』についての岡田斗司夫の言及
だいぶ前にほぼ書き上げていたもので、きっかけを失った按配だったのと自分のクドい性格に辟易してほったらかしにしていたもの。岡田斗司夫検証blog2. - 唐沢俊一検証blogが出たので便乗しました。
- 作者: 森川嘉一郎
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2008/12
- メディア: 文庫
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(引用者補足:『趣都の誕生』における)森川氏の定義を私なりに簡単にまとめると「オタクというのは、自分がダメになろうという方向性をもっている。
だから、か弱いものとか、幼い少女とかそういうふうなものに自らを投影して、どんどんダメになっていく。
現実生活でもダメになる傾向があるというふうに、森川氏の理論は読み取れます。
これが、ダメ志向オタク論ですね。
発言(2)同書P.100
「萌え」を定義すると大変ですが、ここではこんなふうに捉えておきたいと思います。
単に「美少女っていうのは可愛いなぁ」と思って気持ちが盛り上がるというだけでなく、「こんなものまで好きだといって気持ちが盛り上げるなんて、可愛いなぁ俺は」と「こんなのがわかる、萌えられる俺って素敵で面白いな」という感覚です。つまり単純な「好き」ではなく、かなりメタ的な視点、外側にある視点までも含んでくれているもの。なおかつ、少女的な「可愛い」という感性を自分の中に取り込める。それが、私なりに定義する「萌え」です。
発言(3)『オタク論!』(唐沢俊一と共著)より
P.10
唐沢 『趣都の誕生』(森川嘉一郎著)を読んで非常に面白いのは、アキバが実に魅力的な未来都市に見えることです。実際にアキバに足を運べば、そういう街ではないということが、わかりそうなものなんだけどね。
岡田 僕はあの本は「よくできたペテン」だと思っていたけど、本人は案外、真面目なんですよ。「アキバには民族がいる。原宿にいる人とアキバにいる人はひと目でわかる違いがある」というから、じゃあ池袋や赤羽に行ってみろと、彼に言ったんです。池袋族、アキバ族、渋谷族……というのがいるのなら、それは駅ごとに生活習慣が違うというだけの話で、アキバ民族、オタク民族がいるんだという証明にはならないはずでしょう(笑)。
発言(4)同書P.91〜100
岡田 1年くらいまえに森川嘉一郎君と村上隆と僕の3人で「萌え」について鼎談したんですけど、3人の立ち位置がかなり違っていたんです。森川君は、「秋葉原にいる『萌え〜』と言ってる奴がオタクだ」と言うんだけど、僕はもっと古い定義で、「オタクというのはミリタリーやウルトラマンを含むわけで、市場というのはそれでできている。何で“萌え”だけがオタクなのか、萌えは萌えでいいじゃん」と言ったんです。そうしたら森川君は、「僕にとってのリアリティは秋葉原に来て萌えフィギュアを買っている奴がオタクなんです」と。でも僕は、そいつらが中心にいる感じがしないんですよね。(中略、唐沢の「萌え」は可愛いだけじゃなく負の要素がないと、という発言を受け)その負の要素を、森川さんは「ダメ」と表現しています。いかに「ダメ」を盛り込むかが萌えのポイントなんでしょうね。
さきに発言(2)についての注釈をしておくと、ここでは直接的な森川についての言及はないが、論旨展開が『趣都の誕生』の以下の記述に酷似しており、同書批評と見做しうると判断して取り上げた。
『趣都の誕生』序章<萌える都市>より
例えば「『ハイジ』の中ではクララ萌えだ」と言った場合、アニメ『アルプスの少女ハイジ』に登場するキャラクターの中ではクララが好みだ、というような意味になる。ただし重要なのは、そこではクララが好きだという主張と同時に、クララを好んでいることの表明を通して、自らの趣味嗜好を説明することにも力点が置かれているということである。
岡田発言(2)と並べてみて、<「萌え」とは好意の表明であると同時に意識的なアイデンティティの表出でもある>としている点で共通であり、相違は岡田発言(2)における<「萌え」側の過度な自己愛>記述にあり、そこが岡田発言(2)のオリジナリティとなっている。そうしてみると岡田斗司夫は、「萌え」という行為・現象について<だいたい>わかっているという程度(本人申告)であるにも関わらず、「萌える」人間の内面についてはかなり理解しているということになる。というか、森川の主張するところを上手く剽窃している。『オタク論!』では『趣都の誕生』を読んでないと自己申告しているけれど、序章には目を通しているのは間違いないだろう。
ただし、森川の話が専門の建築意匠論に入っていく第一章以降はまったく読んでいないと思われる。森川のこの本は、現在、理工学テクノロジーや公共性の高い分野において「アニメ」や「萌え」などのオタクな要素が重要とされていることを指摘し、そのことが建築論としてまったく見過ごされていたことも併せ、ポストモダンな問題として論を展開している。その展開のなかで、秋葉原やギャルゲーや手塚治虫やコミケやノーズアートが描かれた自衛隊戦闘機やロンドン万博のクリスタル・パレスやオーム真理教のサティアンといったもろもろが語られているのだけれど、岡田斗司夫はこの本論にはまったく触れていない。
私は『オタクはすでに死んでいる』を先に読んでいたので、うすうす予感はしたけれど『趣都の誕生』を確認のため読んだとき「エッ!」と少し驚いた。kensyouhanさんによると、『週刊ダイヤモンド』9月25日号に岡田斗司夫の「いつの時代も日本の強みは色気とテクノロジー」というインタビュー記事が載ってるそうだが、「テクノロジー」が付いてるので『オタ死』以後に少しは『趣都の誕生』を読み進めたってことだろうか(いや、それはない)。
だいたい岡田斗司夫は、例の伊藤剛さんの訴訟問題「サブカルのパンドラの箱」収録『【国際おたく大学】一九九八年最前線からの研究報告』にて、第八講西谷有人「秋葉原観測―家電街からオタクの聖地へ」の前口上で
「文化にはかならず、象徴的な空間が発生する」
これは僕の持論だ。寂れたとはいえハリウッドは単なる地名ではなく、いまだ巨大エンタテイメント産業の象徴である。
(中略)そのデンでいくと今、おそらく最も濃い場所は秋葉原に違いないだろう。西谷氏は秋葉原を「オタクの祝祭空間」として位置づけ、その未来を祝福する。僕たちにも、ついにメッカ(聖地)が与えられたのだ。
と解説している。西谷有人の「秋葉原観測」は森川の『趣都』と隔絶したものでもなく、西谷が書いた事象についての学術的考察を発展させたものといえるだろう。岡田斗司夫は学術的考察、というか「思いつき」でなくじっくり考えることができないのだろうか?(ま、私もけっこう「思いつき」派なので、ある意味応援したいところのものではあるが)。
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