*[検証]文化系ヒーロー岡田斗司夫の『遺言』(1)

岡田斗司夫の『遺言』を読んだ。
前に『オタクはすでに死んでいる』への助走(1)〜(10)(まとめは2010-02-07 - もうれつ先生のもうれつ道場)という続きものを書いたのだけれど、『遺言』は『オタクはすでに死んでいる』の問題だった部分をクリアしたような、ヴァージョン・アップというのじゃないけれど、そんな印象を受けた。
『オタクはすでに死んでいる』はオタク世代間のコミュニケーション・ブレイクダウンをメインに据えていて、そこにデータの不備や粗雑な論旨展開重なり異見のあるところが多い。『遺言』の場合岡田斗司夫のスタート地点から書かれていて、ギャップは庵野秀明ら「クリエイター」対岡田「プロデューサー」だったり、頭の固い先輩SFファン対物知らずの若者(岡田)だったりする。つまり『遺言』だから自分語りしているわけで、それが『オタクはすでに死んでいる』との違いとなっている。
『オタクはすでに死んでいる』で<頭の固い先輩SFファン対物知らずの若者>の構図に当たる箇所は、難波弘之の『青少年SFファン活動小史』をベースにして語っている箇所で、これは自分も言及している2009-10-01 - もうれつ先生のもうれつ道場
要するに『オタクはすでに死んでいる』では、オタク第一世代・第二世代といった世代間の対立を'60年代中期〜末のSFファン内の対立と同じとしている<「すごく似ている」「いま直面している問題と酷似しています」等>けれど、仔細に読むと状況はかなり異なり的外れなのだ。それにあたるところが『遺言』では'80年前後の自分が関わった経験として話している部分に当たるので、岡田斗司夫の主観を信じるかぎり非常に素直に読めた*1。つまり、'79年に大阪でSF大会をやりたいと会場予約までして立候補した岡田たちが、拒否され夏のバイトで赤字を埋めるところから岡田に思い入れを込められ、「物語」として非常に整合性が取れているのだ。
この「物語」という捉え方の補強となるのだろうか、島本和彦の『遺言』書評(筑摩書房 PR誌ちくま)がたいへん面白い。

それはさておきこの本であるが、要するに「俺というヒーローはいかに戦ってきたか」の総集編であり大全なのだ。(中略) かっこいい話の回もあれば情けない回もある。それの証明がこの本だ。岡田斗司夫素敵すぎる。
そして時代の文化系ヒーローになりたければどう戦うべきかが全部ここに記されている。

岡田斗司夫はヒーローであるという前提に立つと、『オタクはすでに死んでいる』読んだときに感じる違和感が明確になってくる。要するに、岡田斗司夫をヒーローとする前提に立てば違和感がないけれど、そうでなけりゃあちょっと呑み込みにくい内容だということ。それとこの<文化系ヒーロー>という言葉からは、みうらじゅんの『色即ぜねれいしょん』(旧題『文化系キング』)を連想せずにはおれない。
以前、岡田斗司夫みうらじゅんについてこんなことを書いたのだけれど2009-10-15 - もうれつ先生のもうれつ道場、改めて書いておくと、岡田斗司夫唐沢俊一との対談本『オタク論!』でみうらじゅんをの高く評価する発言をしている。

岡田 みうらじゅんはあんなにオタクなのに、自分のことを決してオタクだとは言わずに、自分のすきなことをどんどんやってるじゃないですか。あれでいいんですよ。彼はどこに逃げ込んでいるのかというと、「みうらじゅん」ということを引き受けているわけですから、みんながそうなればいいんですよ。

そして2009年の『岡田斗司夫のひとり夜話』にて<岡田斗司夫祭り開催>という企画を「みうらじゅん大物産展」を参照して立案している。予定としては今年中に<岡田斗司夫祭り>と、次なるステップ<武道館で10000人トークライブ><地上波で生放送のレギュラー番組獲得>を完了しなければならないのだが、地震と福一で足を引っぱられましたかな。来年にズレ込んでも頑張ってほしい。
先のエントリを読み返すと、「文化系ヒーロー」「文化系キング」の相違点は<岡田は反省の意味も込め、何かに「なる」という欲望よりも「する」という具体性が重要な旨記述している。しかし岡田らしいのはその具体性が観客動員数という「結果」に表現されてしまうところ>といったところにあるとしている。若き日の岡田斗司夫自身の反省としてそう言っているというわけなのだが、岡田をフォローしておけば、若き日のみうらじゅんも青臭いまでにディランに憧れたり、持ち込み先の『ガロ』編集の渡辺和博に「あんた、和田誠って名前に変えたら?」って言われるくらい影響受けすぎていたりで、「する」より「なる」的安易さはあったりする。若き日の試行錯誤という意味では岡田もみうらも、やっていたことにそう違いはない。
じゃあ今はもう「大人」なんだから「なる」といった安易さは克服しているのかというと、私は微妙に思う。それは『遺言』後半で多発する社会論的発言のところに顕著なのだけれど、今年の原発事故発生時でも、

アニメやドラマを見ていると、非常事態になったら騒ぎ出して責任を追及する「ヒステリックな市民」というのが出てくるよね?僕はああなりたくない。普段は専門家にツッコミ入れようとも、非常時には彼らを全面的に信用する。でないと誰も責任者をやってくれなくなる #otakingex

posted at 21:39:46

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という発言があり、これを読んだとき、岡田にとって「ヒステリックな市民になりたくない」という意識は大きいのかなとちょっと思った。「する」より「なる(なりたくない)」―第三者的視点での在りようをまず考えるのかなと、これもヒロイズムと考えると妙に納得してしまう。この事故発生時の岡田斗司夫連続ツイートはこちら岡田斗司夫の「震災に対する理屈民族なりの対処法」 - Togetterを参照のこと。

若き岡田斗司夫の<「俺たちは本気だ」という「迫力」>の証明、DAICONⅢオープニング・アニメ

遺言

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オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

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色即ぜねれいしょん (光文社文庫)

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オタク論!

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青春ノイローゼ (双葉文庫)

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*1:岡田斗司夫の主観を信じるかぎり」というのは岡田への厭味ではなくて、ここに登場する関係者が岡田のこの本を読んで異論を持つであろうことを想定して。