<唐沢教>信者のシニシズム・アイロニカルな信仰形態

以前伊藤剛著『マンガは変わる―"マンガ語り"から"マンガ論"へ』の序文について書いたとき2009-10-16 - もうれつ先生のもうれつ道場、そこに述べられていた、<対象を掘り下げる考察>の障害となった、マンガ言説領域における読者共同体意識の批評行為への反発のあらわれについて、それは以下のコメントKARUTO-カルト-。 - 唐沢俊一検証blog2010-02-08 - 唐沢俊一検証blogに登場する「シニカル理性」と同じものであろう考えていた。
今も大筋でそう考えているのだけれど、参考文献として名前の挙がっている大澤真幸『戦後の思想空間』『虚構時代の果て―オウムと世界最終戦争』にあたってみるとまた違った感想も持ち、さらに大した考察もせずあれもこれもイコールで結論づける怠惰を反省する意味でも、大澤本に沿って再考察する。
なお、「読書共同体意識」と「シニカル理性」がイコールだとか、伊藤剛の指摘している「唐沢俊一側の人間」に共通する「シニシズムあるいはシニカル理性」について、上記タイトルのような擬似宗教的迷妄であるかのような飛躍をしている主体は私個人にすぎない。いちおう確認しておきます。

戦後の思想空間 (ちくま新書)

戦後の思想空間 (ちくま新書)

大澤本で<シニカル理性>が取り上げられているのは、『戦後の思想空間』第3章「戦後・後の思想」第3節「消費社会的シニシズム小見出し4.「啓蒙された虚偽意識」(P.207〜)。
前段として全共闘以降の思潮運動が、内向の時代〜内向を打破する二項対立〜理念・理想の相対化を経て、浅田彰蓮實重彦が及ぼした80年代の功罪に至る経緯を述べる。大澤の指摘する浅田・蓮實の功罪とは、社会に流通している相対性を盾に取ったシニシズムを基調とした言説を、アイロニカルな意図でそれに擬態しながらシステム構造として批判した功と、そして皮肉にもその結果が「ニューアカ・ブーム」や「蓮實重彦エピゴーネン」の量産を招いた罪を指す。(このへん、たぶんもっと説明する必要があるが、物凄く長くなりそうなので端折る。大澤本に直にあたったほうが賢明)。
この「消費社会的シニシズム」――広告のうたい文句は誰も真実としてそう言っているわけではない。しかし送り手はそのうたい文句で売り込みをかけていることに疑問の余地はなく、受け手も虚偽と認識している情報を受け入れる結果として、自己の真実が広告に侵食されてしまう、すなわち虚偽の情報が流通する結果として(内面はともあれ)行為としてはそれが真実であるかのように社会的に流通してしまうこと――の補強説明としてペーター・スローターダイクの『シニカル理性批判』が出てくる。

シニカル理性批判 (MINERVA哲学叢書)

シニカル理性批判 (MINERVA哲学叢書)

スローターダイクの本は、<民主的な政治体制が確立していた>と説明されるワイマール期のドイツの思潮・精神が、実は「シニシズムあるいはシニカル理性」というものによって形成されていたと分析したものだという。
シニシズム以前の単純なイデオロギーイデオロギーの対立のばあい、対立する相手の考え方は当人にとっては真実であるので、批判者は<その虚偽性を暴露して、それが当事者には真実に見えてしまう社会的な原因まで示してやれば>済む。言い方を変えれば「啓蒙することが有効」な対立関係である。しかし<シニシズムというのは、自己自身の虚偽性を自覚した虚偽意識>であり、<「そんなこと嘘だとわかっているけれども、わざとそうしてるんだよ」>という態度に<啓蒙の戦略にのっとった批判>は無効である。「それが真実でないことは了解している。つまり自分の裡では既に<啓蒙>は終了しており、その上で意図的に対立する立場に立っている云々」という、小見出しタイトル「啓蒙された虚偽意識」とはそういうことである。大澤はこのように説明している。
正攻法のイデオロギー批判――対立する相手の真実の持つ虚偽性の暴露が、相手にはいっさい届かない。なぜなら対立する相手は自分の真実の虚偽性を充分に承知しているから。<「そんなこと嘘だとわかっているけれども、わざとそうしているんだよ」>と言えるから。ということは、シニカル理性の側からすれば、批判者はシニカル理性側が既に解決済みの「虚偽問題」に拘泥している、自分より劣った存在となる。あるいは因果関係は正反対となるが、対立者より優位に立つスタンスを保持するためにシニシズムを選択するといったケースも少なくないだろう。
ここまで書いてきてちょっと脱線するが、いちおう本エントリの趣旨は、今現在の「結果的に唐沢俊一を擁護している者」「唐沢俊一検証行為に対し議論として成立しえない難癖をする者」などのコメントから窺える思潮傾向を、大澤本に沿って考察してるものである。対象は「唐沢側にある存在」であって「唐沢俊一本人」ではない。しかし「シニカル理性の側からすれば、批判者は――自分より劣った存在となる」と書いてきて連想するのは、まず誰よりも唐沢俊一本人だろう。例を挙げるとキリがなくなりそうだが、最近取り上げられた件で言えばこちらhttp://d.hatena.ne.jp/sfx76077/20100208/1264038911で引用された『カンタン系』への唐沢の非難

お気の毒だが、そのような主張はとっくに理解済みである。

 私のあの文章を、町山氏の記事の“内容”の批判と思いこんでいるとしたら、この人の文章読解力はどうにも情けないものである。

というのが典型的となる。「そんなことはわかっているけれど、わざとそうしているんだよ」という理屈である。『カンタン系』の批判は、唐沢にとってみれば既に了解済みのことで、まさに「啓蒙は終了」しているわけである。唐沢にとって終了している瑣末な問題について、ことさらに言い立てている『カンタン系』の知的な立ち位置は、唐沢の主観としては唐沢より劣ったものであるということだ。
あと「サブカルパンドラの箱」事件の総括的語り(岡田斗司夫『オタクの迷い道』文庫版、唐沢との対談「オタク伝説を背負って」)としてオタクの迷い道 (文春文庫)

エヴァブームのとき、僕はそれにハマった伊藤剛くんの悪口を言ったと批判されたんだけれど、一般の人たちがハマるのはなにも悪くない、ただ、伊藤くんに対して、「あなたは評論家になるんでしょう、あまりに入れ込むと全てを「エヴァンゲリオン」との比較でしか語れなくなってしまう危険性があるよ」と言っただけです。

と言っているのも、ベースとなっているのは「対立者より優位に立つスタンスを保持するために採択されたシニシズム」であろう*1
また『あえて「ガンダム嫌い」の汚名を着て』というのも、まさしくこのシニシズムを基調とした発想だろう。このタイトルがつかこうへいのエッセイ『あえてブス殺しの汚名をきて』に由来することは再三書いている。つかの『あえてブス殺しの汚名をきて』というのは、つかの生活心情からくる主張ということではなく、つかの名作『熱海殺人事件』からきている。――劇的な詩情が発生しえない熱海というドメスティックな観光地でおきた、犯罪批評としても時代風潮としても語る甲斐のない醜女殺しを、反語的にカリスマ性に満ちた犯罪に仕立て上げる――『熱海殺人事件』にあるアイロニーは、大澤真幸の説明する80年代の浅田・蓮實の批評スタイルと同質であり、そこには当時つかこうへいの抱いていた苦渋が前提とされるのだけれど、ルサンチマンを持っていないと告白したり、あるいはルサンチマンを持っていてもあまり自分の言説にプラスに現われない唐沢俊一にしてみれば、安易に高飛車な物言いが出来るスタンスを採用したに過ぎず、そこに論理的営為は窺えない。このあたりは『マンガは変わる』にあった、「全共闘世代の葛藤を持った社会認識」の「"ぼくら語り"」を、苦悩・葛藤の欠如した若年層がそれを自らの普遍性の証明であるかのように踏襲し「"われわれ"(って主語を、唐沢岡田はよく使うよね)語り」に終始した、というのにそっくり当てはまりそうだ*2小説熱海殺人事件 (角川文庫)
さらにいえば<『オタクはすでに死んでいる』への助走>で私が問題にしている岡田斗司夫の言説の一貫性のなさ、検証しようとする行為の障害となる「対象や時間の曖昧さ」を前提とした主張の根幹にも、このシニシズムが存在すると思う。いや、もちろんこれは私の偏見に満ちた見解に過ぎない「ひとりごと」だが。

閑話休題
大澤は「シニシズムあるいはシニカル理性」のシステムを以下のように説明している。
『虚構の時代の果て』P.273より

人々を戸惑わせたのは、オウム真理教において、虚構に対してアイロニカルな意識をもっているということと、それを「本気」で受け取っているということとが、まったく両立しているように見える、ということであった。この奇妙な両立は、次のように説明されるだろう。アイロニカルな意識をもたらしているのは、その虚構が、自己でなく、他者(第三者の審級)に帰属しているからである。信じているのは私ではなく、他者の方だ、というわけだ。だが、行為の選択において人が準拠するのは、自己の内面的な信念ではなく、その他者、その想定された特異的な他者(第三者の審級)の認知なのである。そうであるとすれば、いかにアイロニカルな意識によって虚構から距離をとっても、なお行為の水準では、虚構に内在してしまうだろう。

『戦後の思想空間』P.228より

固体のアイデンティティは何によって保証されているのか。それは、固体(個人)の固有の利害関心、固有の理想や理念でしょう。だから、自己のアイデンティティを離脱するためには、自己が意志したり、欲望したりする、利害関心や理念、理想、価値といったものを相対化し、そういったものへの執着を脱しなくてはならない。
このことこそシニシズムというものです。一九八〇年代に日本を席巻した、あるいは日本だけ出なくてポストモダニズムを席巻したシニシズムというのは、いわばどんな理念であれ、どんな価値であれ、それが差異のカタログの中で相対化しうる、という態度をとることです。オウムの修行は、だから、こうしたシニシズムを極端にまで推し進めたものだ、と考えてよいと思うのです。

読んでの通り、大澤はシニシズムを語る上でオウム真理教を念頭においている。伊藤剛は「唐沢側の人間」について語るとき大澤の説明する「シニカル理性」を援用する。両者の言説がリニアに接合されているワケではない。ただし両者を読んで<唐沢教>など失礼な印象を持つのはある意味自然な思考なのではないだろうか?その失礼な輩とは私だけれど。唐沢(および岡田斗司夫)はポストモダン論は否定しており、自己の立脚点を非・ポストモダン的領域と考えているようだが(『オタク論!』「マンガと評論・前編」)、大澤の引用文を読むと「80年代に日本を席巻したポストモダニズムにおけるシニシズム」の派生系統とも考えられうる。
そんな憶測はともあれ、「自分の真実とか内面とか実質といったものが自分の外側に存在し、それが外在するゆえに距離感を保持しつつ、行為としては外在するものと同一化を図る。」というのが、大澤の説明する「シニシズムあるいはシニカル理性」だと言えよう。

1.2010-02-08 - 唐沢俊一検証bloggoito-mineralの引用する中田某の

「自分がモテない、イケてないのは自分がオタクであるからだ。そういう論理を採用している限り、モテないことも、イケてないことも自分のせいではなくなる」

という発言のどこが「シニカル理性」かというと、「自分がモテない、イケてないのは自分がオタクであるからだ」――「自分がオタクである」ことの意味は、このばあい他者との関係性の中で「モテない、イケてない」という属性が現われているということに過ぎず、自己の実質・内面を不問とする機能に求められる。また「自分がオタクゆえにモテないのか」、そうではなくて「オタクである自分の実質がモテない、ということなのか」といった考察は、外在する命題「オタクはモテない、イケてない」から導き出された「自分はオタクである」という結論によって解決されていおり既に終了している。――という論理展開がそうだと言えよう。

2.また古い話で恐縮だが岡田斗司夫検証blog。 - 唐沢俊一検証blogDOSSのコメント

ちょっぴり水をさすようで恐縮なんですが、
唐沢・岡田(それからみんだ)氏が伊藤さんをバカ呼ばわりしたのは問題ありだとして、
当時の(当時の、ですよ)伊藤さんの発言がかなりお間抜けだった点については
スルーしていいんでしょうか。
当時の彼は『エヴァ』を絶対視して、得意のロック音楽論と絡ませて
信仰告白まがいの理屈を述べ立てて会議室の面々を退かせていた、と
耳にしております。
伊藤さん本人は当時のご自身の『エヴァ』評を今も撤回するおつもりはないんでしょうか。
昨年の劇場版公開の際には「みろ、『エヴァ』は消えるどころか堂々と現役ではないか」という
意味の発言をご自身のブログにのせていて、
苦笑してしまいました。
(仮に新作が傑作だったとしても旧TV版の価値を高めることにはならないのに・・・)
もし「当時『エヴァ』を称えたのは間違いだった」宣言をしたら
唐沢・岡田を叩く論拠が消えてしまうので、それで
肝心の『エヴァ』についてはあえて今論じないでいる。
そんな風に見えました。

も、ここで問題とされている岡田斗司夫の「マンガ夜話」での行為と、DOSSの指摘する伊藤剛の(かつての?)エヴァ信仰とは関係は無い。というか、今あらためて読んでみたら、「得意のロック音楽論と絡ませた」エヴァ評っていうのは注釈でも挙げた『マンガは変わる』所収の文とかに近いものか、ほぼその原型とかだと思うけれど、こういうのを「お間抜け」と断定できる優位を確保するために、「ちょっぴり水をさす」、すなわち「自分の話は本題から外れているのは自覚している。自覚しているゆえに自分のこのコメント主旨―伊藤剛誹謗―は有効である」というシニカル理性による言説を展開していると考えらる。
マンガ夜話」の件ではと学会検証blog。 - 唐沢俊一検証blogberiusの「この問題の被害者は岡田斗司夫」だとする奇妙な論旨(というか信仰とも取れる)もほぼシニシズムを基調としていると思われる。

ムーンライダーズの歌に『夢が見れる機械が欲しい』(アルバム『ANIMAL INDEX』収録曲)というのがあるが、内面が理性的自意識で覆いつくされ無意識の入る余地をなくした者が、外部に無意識の領域を確保する、という意味ではない。夢を見るという主体的行為が理性的自意識に及ぼす危険に恐れおののいて、主体性を外部に設定して自己の欲望を消失させ、安全な夢を見続けるシステムを創作したということだ。この歌にある喪失感と危機感はそういう意味であろう(というのは嘘で、大澤真幸の文体に影響され、悪文に磨きがかかったこの話、どう落としていいかわからないので誤魔化したのです)。

ANIMAL INDEX

ANIMAL INDEX

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

*1:たとえば唐沢が問題のひとつとして例に挙げる「夏エヴァ鑑賞後オタアミ会議室にUPされた伊藤剛の発言」というのは未見。だが同時期であろう『マンガは変わる』所収「スミスが獲得したリアリティをエヴァが獲得できなかった理由(ワケ)」を読むかぎりにおいて、唐沢の弁解は不審だ。私はエヴァ未見、スミスは興味対象外だが、ここでの伊藤の趣旨はほぼ納得できる。とても若々しくまぶしい文章であるとは思うけれど。

*2:が、これも再三言うようだが、伊藤剛が自著で問題としてるのは、ポストモダン状況でのマンガを捉え損なっていた夏目房之介竹内オサム世代なども含むものであるので(夏目・竹内『マンガ学入門』)、誤解なきよう。唐沢岡田は自分たちピンポイントの批判であるかのような了解をしているが。