植草甚一と唐沢俊一(1)

(1)前段
唐沢俊一検証blog 2009-09-24「ガゼビア工場の秘密」
2009-09-24 - 唐沢俊一検証blog

藤岡真さんのコメント(1)09-25 07:19

 唐沢俊一は大いなる勘違いをしているのでしょうね。自分の立場、もっと言ってしまえば「分際」というものを全く勘違いしている。今回のお話だって、手塚治虫植草甚一が書いたのであれば(パクリは問題外ですが)、全く問題はないのです。それは一流のアーティスト、一流のエッセイストの達人芸として読めるからです。唐沢は何者なんでしょうか。一流のアーティストでも一流のエッセイストでも、さらには一流の芸人でもありません。本人が言うように「怪しげな知識」「カルトな物件」を紹介・論評する人間のはずです。そんな人間が、4年前のネタで勝負しようというなら、それなりの芸が要求されるのに、唐沢は達人気取りで、ネタを投げ出すだけ。どこの出版社も唐沢の原稿を欲しがっているという、これまた勘違いのなせる業ですか。しかも、それすらP&Gの産物ですから、何をかいわんやです。

SerpentiNagaさんのコメント 09-25 09:12

横からごめんなさい。
>藤岡先生
現在唐沢俊一に代表される「サブカル畑のインチキおじさん」の系譜を辿ってゆくと植草甚一にぶち当たるのですが。
各務三郎による植草甚一批判をご存じないですか(<EQ>誌1979年3月号「独断と偏見」)。まるで時を超えて唐沢を批判しているかのような面白いエッセイです。各務は植草の『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』をとりあげて、こう語っています。
「これほど独断と偏見にみちた本も珍しい。さらにミステリー専門出版社から刊行されたにもかかわらず、それを指摘する編集者がいなかった事実にショックを受ける(書評以外はミステリー雑誌に連載されたものだから、まずその時点で編集者のチェックがあってしかるべきだった)。」

藤岡真さんのコメント(2)09-25 09:27

>SerpentiNagaさん
 死後何年もたってから、植草甚一の一般的な評価が変わっていった事実は知っています。それを「サブカル畑のインチキおじさん」と総括するのは、あなたの勝手ですが、少なくともその“系譜”の上に唐沢俊一がいないことは確かだと思います。唐沢はただの「インチキおじさん」であって、「サブカル」は勝手に標榜しているからです。
 各務氏の悪意のある批判を一方的に受け入れるつもりはありません。『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』はリアルタイムで読んでいますし、なによりこの作品に日本推理作家協会賞を与えた審査員の目が、全員節穴だとも思えないからです。それに、わたしの新作『七つ星の首斬人』が収録された東京創元社の叢書「クライムクラブ」は植草氏が創設したものですから。
 なにかあなたのご意見は、どさkyさに紛れて、唐沢という馬鹿を植草氏に重ねて、植草氏を貶めようとしているだけにしか見えないんですが、如何に。

この応酬のあとSerpentiNagaさんはご自分のブログで、各務三郎の該当文の紹介および藤岡真さんへの返答をなさっており、
彼が蛇を殺すはずがない。 - SerpentiNagaの蛇行記録

これは藤岡先生に限ったことではないのだけれど、どうも唐沢俊一なる存在が、自分とは全く無関係な、どこか知らない暗くて汚くて臭い領域から勝手に涌いて来たもののごとく思いこみたがる人たちがいるようだ。でもそれは間違っているのではないか。彼は我々のあながち知らないでもない道を辿ってきたのであり、その道を踏み固めた先人たちの中には、植草甚一氏という「歴史的偉人」も確かにいたはずなのだ。

とまとめている。
私は各務文についてはミステリの話なので判断できないが、植草甚一のジャズ評論なら比較的読んでおり、「ああ、なるほど」と納得してしまった。納得してしまったうえにSerpentiNagaさんとこにコメントまでしてしまった。

はじめまして。
たいへん参考になりました。澁澤龍彦の著作再検討とかいう話にもなりますね。
当時は問題なしとされていたことが現在では通用しなくなってきてしまった。リアルタイムで「当時」を経験した方からすると、再検討をすることが「当時」の存在意義の全否定かのように感じられてしまうことなど、反応がストレートなので興味深かったです。ひとごとでなく自省するところもあります。
あとこれは根拠無い思いつきなんですが、インチキな性質・胡散臭い性質っていうのは、実は「紹介屋」には適性があるような気がしています(植草甚一がストレートにインチキだとか胡散臭いということではありませぬ)。

そのうえこの間
2009-10-16 - もうれつ先生のもうれつ道場
伊藤剛氏の『マンガは変わる―“マンガ語り”から”マンガ論”へ』の話の途中に
マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ
岡田斗司夫氏の次の本『食べても太らない男のスイーツ』 - 伊藤剛のトカトントニズム
を取り上げながら

私の考えているのは、内外のストレスを抱えた上記全共闘世代が同時に「サブカルチャー第一世代」(津野海太郎高平哲郎評)であり、彼らが信奉したのがサブカルチャーの導師(グル)植草甚一であったことだ。

とか言って脱線している。
たぶん私は「ドサクサに紛れて、唐沢という莫迦植草甚一に重ね」るのことは意味があり、またそのことで植草甚一が貶められることはないという見通しを持っている。また、ちがうニュアンスでだが岡田斗司夫みうらじゅんとも重ねあわせられると考えている。そう考えるとSerpentiNagaさんの意味する「サブカル畑のインチキおじさん」のニュアンスとは外れてきている気もするが、私の思惑は岡田斗志夫みうらじゅん、あと小西康陽などふくめ「サブカル畑のインチキおじさん」的な一緒くただと思う。

藤岡真さんコメント(1)をよく読めば、藤岡さん自身が植草甚一の書いた文の中に怪しい記述が含まれている場合を前提に話をされており、大意としてはSerpentiNagaさんが主張されているであろうことと相反するものではなかったりする。藤岡さんが手塚治虫植草甚一を例に挙げた意図は、手塚および植草はこういった場合に例に挙げられる程度に往々にして怪しい言説をするが、それは「分際」として免責されているという特権性を指摘し比較として唐沢俊一を貶めることにあると思われる。コメント欄の短文であるためか、その「特権性」の根拠についての記述はないが。であるからこそSerpentiNagaさんのカウンターがあるのであろうし、それを「どさくさに紛れて」とするのは当たらない。「サブカル畑のインチキおじさん」という言い方が不愉快であることは認めるけれど。
お二人のやり取りを読んで、私はこういう感想を持ちました(これ以後の話はしらない。とくにhttp://d.hatena.ne.jp/sfx76077/20091027/1256610343あたりの事情は)。




(2)植草甚一の胡散臭さ(という表現が問題なら「特殊性」)
高平哲郎編著『モダン・ジャズの勉強をしよう (植草甚一ジャズ・エッセイ大全)』
モダン・ジャズの勉強をしよう (植草甚一ジャズ・エッセイ大全)
この中に<なぜオーネットの「チャパカ組曲」が映画に使われなかったかラヴィ・シャンカールを聴いて判然とした。>というコラムがある。
このコラムはオーネット・コールマンの2枚組LP『チャパカ組曲*1の話が主体なのだが、実のところ音楽的に特出すべき情報は書かれていない。オーネットのやっているようなフリー・ジャズ(あるいはもっと限定してオーネット個人の音楽)は全体を聴いて初めて意味を持つもので、コンラッド・ルークスの元祖ドラッグ・ムービー『チャパクァ』のサウンド・トラックにはふさわしくないという主旨であり、例えば山下洋輔『風雲ジャズ帖』での菊池雅章との対談におけるプーさんの嘆き節とほぼ重なるような話である。
チャパカ組曲

チャパクア [DVD]

新編 風雲ジャズ帖 (平凡社ライブラリー)
オーネットの『チャパカ組曲』は、全編がオーネットのトリオ(デヴィッド・アゼイゾンb、チャールズ・モフェットds)+ファラオ・サンダースのフリーな演奏とオーネット自身がスコアしたストリングスが絡んだサウンドだ。では映画『チャパクァ』は全編ラヴィ・シャンカールのパフォーマンスで貫かれているかというと、そういうわけでもない。以下に記した音楽家(もちろんオーネットも含む)のサウンドがコラージュのようにちりばめられており、ラヴィ・シャンカールがかかわったインド音楽のところも必ずしもラヴィのシタールが使われているわけではない。後に述べるように植草甚一ラヴィ・シャンカール(およびシタールの音色)をあまり高く評価しておらず、オーネットの音楽を持ち上げる方便としてラヴィ・シャンカールを貶していると考えられる。とはいえ先に述べたように、このコラムにオーネットの『チャパカ組曲』の素晴らしさを解説しているところがあるかというと、そういった部分は殆ど無い。いつものJ・J氏の如く、話の本題は映画『チャパクァ』へ横滑りしてゆく。

そして、このコラムで今読んでも面白いと思われるのはこの映画『チャパクァ』に関するところのほうで、当時の雑誌からの翻訳引用であろうコンラッド・ルークスへのインタビューや公開にいたるゴタゴタが詳細に記述されている。情報量として音楽に関するものより映画についてのほうが圧倒的に多いのだ。当時の日本でオーネットの2枚組LPを手に入れることは可能だが、映画『チャパクァ』を鑑賞することは叶わず(だと思うけれど違ったら莫迦にしてください)なによりこの映画に有難味を持つ人が絶無だったはずだ。今はまあそれなりにいると思いますよ、キャストがジャン・ルイ・バローウィリアム・バロウズアレン・ギンズバーグ、ムーンドッグ、ザ・ファグスときたら出来はともあれ「大カルト・ムービー」でしょ(オーネットも出てくるし)?
Moondog

First Album
映画の中身は以下を参照
http://pub.ne.jp/Sightsong/?entry_id=1219329

23秒に瞬間映るゴキゲンそうな髭面がザ・ファグスのテューリ・カプファーバー
39秒ころ一瞬映る異形の人物がムーンドッグ
46秒あたりにオーネット・コールマン(右手の人物)が映っている(音楽家以外は省略)



このへんのアンバランスさというのは例えば高平哲郎

矢崎泰久植草甚一のメインはなに?と訊かれて)基本的には、向こうの本を読むことでした。それが映画であろうとジャズについてであろうとなんでもかまわない。

という発言や、かつてJ・J氏(植草の'73年以降の愛称)が顧問だった早大モダン・ジャズ研究会に所属し、後に植草レコード・コレクション4千枚をまるごと引き取った某有名人*2の弁

植草さんは、どっちかっていうと、乱暴だね。すごく乱暴に聴いてる。なんで一面にこんなに傷があるのってくらい、片面三曲全部に傷があるんだよ。(中略)こういうこと言っちゃなんだけど、ほんとにジャズが好きだったかっていうのもね(笑)、ちょっと疑わしいかもしれないよ。確かに興味はあったらしい。ジャズ周辺の風俗的なものが好きだとか。そのついでに、ちょっと聴いていたのかもしれない……。

などと符合する。このコレクション4千枚というのはある時期高平哲郎によって整理梱包されており、その時の状態のままで某有名人に引き取られている。梱包された時期は1966年〜73年の間のいつか(おそらく60年代中)と推察され、ということは植草は晩年10年近くこれらを聴いていなかったことになる(しかし高平哲郎といい津野海太郎といい、自己申告しているように記憶がテキトーなので違うかもしれないが)。
このへんソース元は高平哲郎『植草さんについて知っていることを話そう』
および津野海太郎『おかしな時代』
植草さんについて知っていることを話そう
おかしな時代
植草のこのコラム、本題以前のマクラも興味深い。
(大意)<この間から渋谷恋文横丁の古物屋で見つけた手頃なミニ・テレビのことが気になる。買おうか買うまいか思案しながら近くの別の店を覗くと英ギタリスト、ジム・サリヴァンの『シタール・ビート』中古盤を見つけ買って帰った。それでラヴィ・シャンカールのことを思い出した。(J・J氏はラヴィ・シャンカールおよびシタールはお気に召さないようだ)東洋音楽はきらいだ(!)。シタールの音は女性的で艶かしい(のが良くない)。ラヴィ・シャンカールの音楽を支持したのは(非東洋の)ヒッピーたちであり、女の子たちだったのだろう。ジョージ・ハリスンビートルズの中でいちばん女性的だ。>
Sitar Beat
いま話のマクラとはいえこんなコラム書いたら、別に唐沢俊一でなくともアウトでしょう。そういった意味では藤岡さんの「分際」の違いというのは重要だとおもうけれど、だからといってSerpentiNagaさんのような捉え直し(そういって他人事にするのも良くないので「私のような捉え直し」でもいいですが)が否定されることは無いと思う。
植草のこういった一つのところに落ち着くことなく話題が転がってゆく手法(あるいは思考)は坪内裕三『考える人』でも言及されており、植草にとっての(「歩く」ことがそのまま「考える」こととなる思考法の)必然性にまで論は及んでいる。笑ってしまうのは坪内の文に出てくる植草晩年の短文のタイトル、「ぼくは考えないから、ぼくなんだ」。kensyouhanさんや藤岡さんのblogエントリのタイトルの本歌取りのような……(いや、「ぼくはパクるから、ぼくなんだ」とか加工しないでもそのまま使用可能なものだから)。
考える人 (新潮文庫)

長くなったのでこの話は続く(かも知れない)。

*1:映画に使われなかったサウンド・トラック。映画は最終的にラヴィ・シャンカールが音楽担当

*2:タモリのこと