*[検証]文化系ヒーローと文化系キングの違い【みうらおかだ2】

-2011年11月05日(土)の竹熊健太郎さんのツイート抜粋
先週*[検証]文化系ヒーロー岡田斗司夫の『遺言』(1) - もうれつ先生のもうれつ道場をUP後に竹熊さんがみうらじゅんとオタクとの関係について連続ツイートされていた。以下は拙稿と関係ありそうなツイートの抜粋引用です。

@kentaro666

みうらじゅんさんは、オタク第一世代にとって理想でしょう。なにより彼がすごいのは独自のオタクジャンルを「創造してしまう」ことです。RT @utatte @kentaro666「プロのアマチュア」はみうらじゅんさんな気がいたしますが、どうでしょう。

posted at 12:25:09

「マイブーム」こそ、オタク道の極致だと私も考えています。RT @sakura_kyoko @kentaro666 マイブームって彼の作った言葉、最強ですよね。

posted at 12:27:34

オタクの理想を他人が価値を認めないものに価値を見出し、これを蒐集し、他人に価値を啓蒙する「創造的消費者」であるとするなら、みうらじゅんはもっとも成功したオタクである。しかしオタクは彼をサブカルとして区別しようとする。だがキャラ萌えと仏像萌えに本質的な違いがあるのだろうか。

posted at 12:46:28

僕の記憶では、オタクの初期形態はみうらじゅんのような「好事家」です。好事家は道なき道を行くので、積極的でないとなれません。バックパッカーとツアー客の違いみたいなものです。RT @rnaka05 普通のオタクは「萌えさせられて」喜んでる RT @kentaro666:

posted at 12:56:16

僕と同じくみうらさんにも、オタクとサブカルを分別する発想はないと思います。ただみうらじゅん的オタクをサブカルとして分別しないと、政治的に困るオタクがいるのだと思います。RT @rnaka05 初期オタクも彼をサブカルと? RT @kentaro666:

posted at 13:13:00

.@rnaka05 名は出しませんが、オタク第一世代には「政治的に」オタクをやっている人たちもたくさんいます。いやどの世代にもいるかも。RT

posted at 13:23:01

そもそもオタクとサブカルを区別すること自体、政治的な言説だと俺は思うんだよなあ。

posted at 13:25:16

この連続ツイートについての私の発言。

@discusao

オタクが往々に「教祖」的存在を必要としてきたのに対し、インディーなみうらじゅんはそういった他者依存を拒絶している(ように見える)のが、オタクからすると都合が悪いということでは?と愚考RT@kentaro666政治的に困るオタクがいるのだと思います。 @rnaka05

posted at 13:54:28

権威とサブカル・リーダー的なものの暫定的な違い:サブカル・リーダーは下剋上というか交替が行われると、それまであった思潮やシステムがガラリと変わる。権威は人の流れはあっても、一応認められた言説は発展的に継承されるということにはなっている。

posted at 14:04:28

過去の「教祖」について、よく「昔から○○はインチキだと思っていた」云々と否定することがあるけれど、それは当時○○が必要とされていた意味を忘却しているということも考えられ、ただの現状肯定をしているに過ぎない場合が多い。

posted at 14:10:43

「インディー」であることに関しては同意のRTもあるのでTwitter. It's what's happening.、的外れではないと思う。ついでに蛇足すれば、竹熊さんが上記のような発言を述べるのは、彼もまたインディーであるからだろう。
私の抜粋の仕方も大きいのだろうが、ここで竹熊さんの問題とされているのは、
(1)みうらじゅんを基準に考えるとオタクとサブカルに本質的な違いはない。
(2)その本質に照らし合わせて考えるに、みうらじゅんは<オタク道の極致>にある。
(3)しかし通常オタクはみうらじゅんサブカル領域の存在として認識し自分たちとは区別している。それは政治的判断である。
この3点で、特に三番目の提起が重要。自分の欲望を計算に入れない知性には創造的主体が理解できない。……何言ってるのか分からないか。
つまり、色々な表現が出来るんだろうけれど、基本的にオタク(ここでの「オタク」は「第一世代」限定という意味で解釈してください)のスタンスとは「のめり込むでもなく否定するでもなく、対象を面白がる」ものだとは言えるはずだ。一方みうらじゅんのスタンスというのは、スタートライン時から「見ぐるしいほど愛されたい」というもの。
『見ぐるしいほど愛されたい』(文庫版)
同書相談役・糸井重里の解説

そうそう、この「見ぐるしいほど愛されたい」ってタイトルも僕がつけました。(中略)みうらがこれで良しと思っているかどうかはわからないけど、これほどみうらという男を言い当てたタイトルはない!と今も思うよ。世の中でダメだと言われているもの、いや、ダメだとすら認識されなくてほっておかれていたものを愛してしまって、そんなものすら愛してしまう「オレ」も愛して、っていう二重構造がみうらの中には根強くあるんだよね。一生こういう風に、ただただ愛されたがっている人なんじゃないかな、みうらは。

はじめから<「オレ」も愛して>抱き合わせでのめり込んでいるので、オタクの<クール志向>とはソリが合わないのではないか?
もう一つ考えられるのは、前も書いたけど、みうらじゅんは「見ぐるしい愛情」を問題にしていて、愛情の対象をネタに商売はしていない。例えば「ゆるキャラ」をプロデュースして公的機関とのつながりを強める、といった鉄板なステイタスを築くこと―要するに岡田斗司夫が思いつきそうな方向性には向かわない。それは岡田さんよりみうらじゅんのほうが(見てくれが)胡散臭いせいも多分にあるけれど、基本的には著作とイベント・講演(「ザ・スライドショー」を講演と呼ぶならば)の範囲に表現活動は限定されており、その姿勢は意外にもストイックな印象を受ける。
あと『D.T.』で童貞を絶賛しつつ、ヤリまくりの『やりにげ』も書けちゃうところがオタクと決定的に異なるところか。
『青春ノイローゼ』を読んでいると「岡本信人的なもの」の追求という話が出てくる。「岡本信人的なもの」とは、私の理解では、個性的であることをまったく求められていない脇の存在なのに妙な存在感を発揮し、またそのことに無自覚・無意識であるうっとうしい存在を指す。同族としては小倉一郎下條アトム、「男たちの旅」のワカメ(森川正太)、三ツ木清隆、白影(牧冬吉)、「男はつらいよ」の博(前田吟)など。見栄晴秋野太作うっかり八兵衛高橋元太郎)などとは区別される(こちらのほうが無個性・意識的)。そんな「信人的なもの」カテゴライズの正誤はさておき、みうらの「信人的なもの」への愛と竹熊さんの「電人ザボーガー」のツイートが等価というのが理想なんだろうね。

この当時の邦楽として特別突出してるわけじゃないけど、ベースがやたら動き回って落ち着かない。

見ぐるしいほど愛されたい (文春文庫)

見ぐるしいほど愛されたい (文春文庫)

D.T.

D.T.

青春ノイローゼ (双葉文庫)

青春ノイローゼ (双葉文庫)

-『色即ぜねれいしょん
実は『色即ぜねれいしょん』を未読だったので、今週はこの本を手に入れて読んでいた。
いちおうイヌこと乾純を主人公にした小説なのだけれど、みうらの本を読んでいる方ならよくご存じだろう文化系の仲間三人による「高1の夏休み・隠岐島ユースホステル」の話がメインで、他でも記されていた「京都の不良学生」と絶賛したヒッピー風ヘルパーに法外な値段で自主製作レコードを売りつけられるエピソードを含め、多くのディテールは事実に基づいていると思われる。
この小説には乾純(これってスターリン黄金期のドラマーの名前だよね…)の通う仏教系高校の日常も詳しく描かれている。
というか数年前に映画化されてる。

同書より引用

僕の詞にはいつも嘘がある。それがコンプレックス。いつも誰かの立場を借りている。他人にどう見られたいか、そればかり意識して本当の自分を隠している。

このへんは、岡田斗司夫でいうところの<浪人中もSF作家になりたい!と彼女に語っていたら、「岡田くんはいつも”なりたい”ばっかりだなぁ。私はやることばっかりだよ」と自然な感じで言われ、心底ゾッとした>(「岡田斗司夫のひとり夜話」その2 - 冒険野郎マクガイヤー@はてなのまとめによる)というところと重なる。みうらは中・高一貫して男子校だった十代の真ん中で他者へのコンプレックスに悩み、岡田さんは20歳間近で彼女に指摘され<心底ゾッとした>ということか。「岡田斗司夫のひとり夜話」は『遺言』前の講演で同書のベースともいえるので、マクガイアーさんがまとめたような岡田さんのDAICON以前の話がないのが残念な気がする。そういうの(先の話とか、中学時代土管の上でギターを練習していたエピソード他)が入っていたほうがより面白くなったと思うし今後そういう展開の新刊があることを期待するが、今回の『遺言』はガイナックスがメインだからオミットされたのだろうか?あるいは「ひとり夜話」がみうらじゅんに近づきすぎた、とかいった反省が岡田斗司夫側にあるのか?
と書いてきて今更気づいたんだけど、みうらじゅんは早生まれだから岡田斗司夫とは学年が1個上になるのか。ということは、岡田家の家業が成功して斗司夫が45畳の個室をあてがわれたりしていたちょうどそのころ、三浦純は寺山修司『家出のすすめ』やディランの「ウディに捧げる歌」<つらい旅Is to say I've been hittin' some hard travelin' too.>に憧れ、金沢に家出を決行していることになる。家出といっても、ラジカセとギターケース、首にはハーモニカ・ホルダーといういでたちで大雪の兼六園に向かい無人の公園で3曲パフォーマンス、そのまま<けっこう高級なホテル>に投宿してオリジナル曲「金沢」作成、京都の自宅・自分宛に手紙を投函、翌日に帰宅しているだけの旅行だけれど*1。1958年生まれは、自分の印象は存在のうっとうしさが特徴的。言い方を変えれば影響力をもつのが多いのだけれど、「こいつら」(失礼)まとめての10代の―ということは1970年代の履歴というのが表になってたら面白い(が、面倒くさそうなので誰がやってくれる堅実な方はいないかな)と思っています。

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STOP JAP(紙)

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遺言

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Bob Dylan

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*1:ふつうこういうのは「黒歴史」として抹殺されるものだけれど、「見ぐるしいほど愛されたい」みうらじゅんにとっては愛される根拠となるんだね。