オタキングexについての「マジメな話」

『マジメな話―岡田斗司夫 世紀末・対談』岡田斗司夫 1998マジメな話―岡田斗司夫 世紀末・対談
ゴドーを待ちながら」(鶴見 済との対談)

岡田 俺、これは大学でときどき言ってるんですけどね。たとえば、オタクっていう言葉の意味を、この二年間ぐらいですりかえちゃったんですよ。アメリカで大して流行ってもないアニメを、「流行ってる」と言ってみたりですね。世界でオタクブームになっているという嘘八百を、いろいろなところに書いてみたりすると、みんな信じるわけですよ。
鶴見 あちゃー。嘘八百
岡田 行って聞いてみれば確かめられるのに確かめないから。それをいいことに、少しずつ意味を変えていったら変わるんですよ。「ああ、なんだ、世の中って結構、思い通りになるじゃん」って思った。この巨大な遊び道具があるから、俺は結構、楽しいです。
鶴見 被支配者としては、だまされないように十分注意して、あとは踊ると。この楽しみのほうが自分に合ってますね。気がついたら「デカイ一発」なんて思わなくなってて、「退屈感」も消えちゃって「この社会は、今まで見たこともないようないい社会だ」とまで言いだしちゃって、もちろんだめなところもたくさん目につきますけど。
岡田 俺は楽園って言ってます。俺がこの社会を動かせるなと思うのは、この十年ぐらいだけなんですよ。それを過ぎちゃえば本当の楽園になってしまって、僕の意見すらもマスメディアみたいなのを通していえるものとか、巨大なコミュニケーションの相互交換の海の中に入っちゃって、ただ単に「ある池とか、ある湾の中で有力」に過ぎなくなっちゃうだろう、というあきらめに似た気持ちがあるんですよ。だから、そうなってしまうと、僕がいた値打ちとか意味とかいうのはたぶん、この十年ぐらいでなくなっていくだろう。だから、それまでは積み上げていって、そこから先に来る楽園では、楽園に住めなかったサルとして、みなさんの幸せを遠くより見て……。
鶴見 うーむ。俺は自分に価値とか意味とか一切ないと思ってるんで、その心配はないな。
岡田 つらいけれども、それは生物的な限界ですよね。その時代に生まれなかったんだからしょうがない。と言いながら、そこまであきらめてないな。そこで、もうひと騒ぎ起こして、十年を三十年に延ばせないか、それは延命策を考えますよ。
鶴見 レイヴに行く手もありますよ。
岡田 でも、今、二十歳以下の人ってみんな楽園に住んでいると思います。
鶴見 そうですね。

この対談(1997年)当時の岡田の自己認識としては、言論人としての影響力はこの時点がマックスで以後は下り坂であると考えているようにみられる。「言論人」という表現が適切かどうかわからないが(オルガナイザー?アジテーター?あるいは当時岡田が使っていた用語でいう「イメージメーカー」?)しかしその有効期間、実質的な社会への影響力―「俺がこの社会を動かせるなと思う」状態―は十年、一回り時が廻れば終了しており、岡田の言説の意味・価値は消滅しているであろうと、この時点で岡田は予測している。今日からみて、この認識は驚くくらい明晰だ。
「楽園に住んでいると形容される二十歳以下の人」というのは、『オタクはすでに死んでいる』でいうところの「オタク第3世代以後のオタク」に当たり、それらの人々の台頭のあかつきには、この当時の岡田斗司夫の「意味や値打ち」は消滅しているというのであるから、関係性の優劣は逆転しているけれど『オタクはすでに死んでいる』で主張している内実と同一のことを言っていることになる。
そして私が<『オタクはすでに死んでいる』への助走>シリーズでクダクダしく書くまでもなく、岡田自身が「意味や値打ちの消滅」の根拠を、自己の存在の暫定性というか既存体制に対するカウンターカルチャー的な位置付けに求めており、一過性の真理に過ぎない(岡田の世界の擬似楽園性と二十歳以下の世代の真楽園性という対比構造)と言っているところが注目される。
この対談集のこういったところに代表される、珍しい岡田斗司夫の正直な心情の吐露というのが、岡田斗司夫氏の次の本『食べても太らない男のスイーツ』 - 伊藤剛のトカトントニズムでも以下のように指摘されている。

ところで、実は岡田氏は、1998年というたいへん早い時期から、今回の「オタクの死」にほど近いことを言っておられます。意外に誰も言及していないのですが、『岡田斗司夫・世紀末・対談 マジメな話』(アスペクト)の最終章、当時の奥様でいらっしゃった岡田和美さんとの対談です。この対談で岡田氏は自分に「わからない世代」が出てきたことをしんみりと認めています。また、これから自分は「おセンチ」になろう、「女々しく」なろうか、とも。

10年前の本ですが、いまの目で読み直すとさまざまな発見があると思います。

であるとすると、現在の岡田斗司夫の活動の規範となるものは、基本的には「もうひと騒ぎ起こして、十年を三十年にする延命策」だということになる。
どうして岡田は「自分が社会を動かせるなと思うのはこの十年ぐらい」と思うのかと考えると、ここで岡田が説明していることは
(1)岡田の言説が社会的影響力をもつベースとなる「オタク第1世代」的基礎知識が、世代が新しくなることで途絶するから。
(2)過渡期的現状の中でこそ「黒幕の発言」のような影響力が発揮されるが、岡田の発言者としてのステイタスが上昇・固定し、状況も落ち着いて「オタク」的論説に岡田以外の様々なものが現われれば、岡田の言説の暫定的有効性も消失するから。
この2つに整理できると思う。(2)について追加して言えば、岡田は自説やら自己の存在を、所論と比較対象可能な「あまたあるオタク論のワン・オブ・ゼム」となることを拒絶しているのではないか?それが先の発言における「僕がいた値打ちとか意味とかいうのはたぶん、この十年ぐらいでなくなってくだろう」という極端な認識になっていると思われる。それは、相互交流の不能な堅固な外殻を装備し、その内部が岡田の存在が絶対となるような―<唐沢教>信者のシニシズム・アイロニカルな信仰形態2010-02-13 - もうれつ先生のもうれつ道場における大澤真幸の言う「第三者の審級」となるような―状態を絶えず志向していることからも窺える。

http://otaking-ex.jp/secret/
オタキングexというものの意味は、会社法とかそういった実務的なありようは別にして、この『マジメな話』「ゴドーを待ちながら」を補助線に岡田の言論活動の一環として捉え直すと以上のようになる。すなわち、「既に若い世代には意味や値打ちのなくなった岡田斗司夫が、自己の延命策としてマイナーな共同体を創出した」という意味だ。マイナーな現状については、「世界征服」に至る組織拡大によってメジャー化することで解消するようだ。しかもこのex=エクスパンド・システム、町山智浩exとか何野某exといったぐあいに多角化することも視野に置き、「開かれたシステム」であるかのように捉えられている(実際的には、各ex間が相互交流することを岡田が考慮しているとは思えない―要するにオタキングexに非・岡田や反・岡田の要素が侵入することを岡田が許可するとは思えない―)。
先に引用した伊藤剛の発言の別のところでは

私たちは「分かりあっている」からコミュニケートするのではない。そもそも互いにすべて「分かりあえない」から懸命に言葉をつむぐのです。「他者と出会う」とはそうした認識のことだし、裏を返せば、そこで「ちゃんと一人になる」ことを引き受けた地点からはじめるということです。この当たり前のことが、岡田氏にはできていないようです。「オタクだからお互いに分かりあえる」という幻想は、そもそも真の意味でのコミュニケートの契機を塗りつぶし、見えなくする。社会学的な言い方をすれば、コミュニケーションコストの低減のための方策ということになるでしょうが、結局のところ、お互いに甘えあっているだけの相互依存にすぎません。言葉を変えれば、岡田氏はついに「自立する」ことがなかった。

と書いている。これと今私があれこれ書いていることがイコールなのかどうかは置くとして、exとか会社とかNPOとかFREEといった修飾からは、岡田斗司夫が個的であろうとする志向よりも自分と同質な他者を念頭に置いたものを強く感じる。勿論これは偏見で、「会社組織」という説明の中で「無料会員」となる層の存在が、開かれた組織か否かの大きなポイントとなるだろうことは予測できる。しかし、まず何はともあれ、一等最初に自分が組織の頂点であることから全てが始まるような発想は、結局は以前のルーティンの繰り返しでしかないのではなかろうか?もういい大人なんだから、たまには自分を抑制して若い起業家のサポートにまわるとかしてみてはどうだろうか。

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本