20世紀の終わりに、ワリともてはやされていた唐沢俊一

かつて、いしかわじゅん唐沢俊一を(現状からすれば)かなり高く評価していたことは、以前[検証]いしかわじゅん『秘密の手帖』唐沢俊一篇「暗黒面を見たか」 - もうれつ先生のもうれつ道場で記した。秘密の手帖
いしかわじゅんは、この当時は唐沢なをき名義の漫画より唐沢商会名義のもののほうを買っていた。その箇所の引用

ぼくは、なをきのほうを、人材がほとんどいないといってもいいギャグ漫画界における、唯一の希望の星だと思っている。しかし、得意とする世界がやや狭いのと、描線や絵柄や表現が若いくせに古いのとが気になっていた。だから、兄の俊一と<唐沢商会>という新しい組み合わせを作って、作品を発表し始めた時には、おお、これでなをきにも新展開が、と思ったのだ。新しい発想をえて、弟のほうにも、きっといい影響があると思ったのだ。
もちろん、その予想は当たっていた。俊一でもなをきでもない世界が、唐沢商会にはあった。ふたりで組む場合には、どちらの手柄にするかで大抵は空中分解するが、唐沢兄弟には、なるべく長続きしてほしいものである。

藤岡真blogを眺めていたら、とり・みきは正反対に唐沢商会よりもなをき名義の漫画を好むと明言している。http://d.hatena.ne.jp/sfx76077/20100109/1263026546
このエントリに限らず、唐沢商会とは、なをきの七光りで俊一の業界足がかりとなした態のもの、とするのが藤岡氏の見解。現状からすれば、しごくごもっともな意見。
とはいえ、上記いしかわコラムの唐沢俊一評、当時のサブカルチャーの思潮として読むかぎり的外れな記述とも思えない。いしかわの話は
(1)唐沢俊一はいかがわしくてインチキ臭い。しかし魑魅魍魎の跋扈する出版界に於いては、そういったイメージはマイナスにはならず、業界内の暗黒面として君臨するに至った。
(2)経歴の不明さ。俊一が業界参入してから「それほど長くないはずだが」、なんだか「ずっと昔から知っていたような気がする」、という当然の疑問。芸能プロ、薬科大出身などの肩書きより、「本業はなんだろう」、つまりメインとなるものの不明。
(3)貸本漫画及び貸本漫画家の発掘について「コンセプトも文章も少し乱暴で雑すぎるのではないか、という気もしないではない」。が、「唐沢が貸本漫画の古本取引相場を作るまでになってしまった」強引な手腕は認めざるを得ない。
とまとめることができる。経歴曖昧、正体不明、しかしいつの間にかある領域で黒幕的な力を発揮している。そういった「韜晦するナビゲーター」が期待されていたことが、いしかわや次に紹介する鹿島茂のコラムから窺える。

というわけで、いしかわとほぼ同じ時期鹿島茂唐沢俊一を評価している。

暇がないから読書ができる

暇がないから読書ができる

『暇がないから読書ができる』――この中に収録されている'97〜'98の「読書日記」の中で、鹿島茂唐沢俊一の本を何度か取り上げている。言うまでもなく鹿島茂は博覧強記であり、唐沢俊一はかのように持ち上げられて栄耀栄華を味わったのではなかろうか?もしくは、やっぱりアカデミズムからのアプローチには賛否を問わず捻くれた感想を述べるのであろうか?

同書P.44より

 特殊法人が赤字を生み続ける原因のひとつに、郵便貯金からの税制投融資という社会主義金融にすっかり依存しきって自助努力をしなくなったことがあるが、これは、ほとんどそのまま人間の体にもあてはまる。便秘薬を常用すると、腸が頼りきって、便を自分で押し出そうとしなくなる。ドーピングをすると体が男性ホルモンを分泌しなくなる。
 こうした簡単だが原理的な薬と体の知識を教えてくれるのが唐沢俊一唐沢俊一のカルト王』(大和書房 1400円+税)である。といっても、これは薬の本ではない。それどころか、扱われているのは、心霊家、死体、脳内ドラッグ、レディースコミック、ホモカルチャー、オウム真理教、カルトソングなどなど、いずれもマージナルな世界のキッチュな話題ばかり。
 (中略)ようするに酒場で話したら大受けしそうな、B級カルトネタ満載の悪趣味本の一つなのだが、読んでいて不快どころか、極めて爽やかな印象を受けるのは、おぞましくもグロテスクな対象に迫りながら、けっして対象の向こう側に行ってしまうことのない醒めた理性が常に働いているからである。薬学部中退という著者の経歴が示すように、危険な毒物であっても、取り扱い次第では、立派な薬となりうることを知っている人の本である。(太字は引用者指定)

今はお笑い的なニュアンスで扱われてるけれど、この時期、「薬学部中退」はおおいに効力を発揮している。それと、「けっして対象の向こう側に行ってしまうことのない醒めた理性が常に働いている」というのは、揺らがない理性を批評の前提としている意味では、この時期の岡田斗司夫唐沢俊一ら「オタク第1世代」の理論的な擁護になってしまっているきらいがある。

同書P.77より

最近、各界の著名人の書斎や書庫をそのままグラビアにする企画が雑誌ではやっているが、唐沢俊一の『カルトな本棚』(同文書院 1457円+税)はその人選が相当に変わっている。(中略)ようするにカルトと呼ばれる人たちのカルトな本棚の写真ばかりを集めた本だからである。
(中略)あまりにも、この人にしてこの本棚ありという感じで、ドンピシャすぎるのが難点といえば難点である。

『カルトな本棚』、二番煎じな企画のうえ意外性に乏しいぞ、という評価だそうです。

同書P.98〜99より

(「トホホ世代とバッドテイスト」というタイトルで、トホホ世代=みうらじゅん及び唐沢俊一とバッドテイストの人=荒俣宏を取り上げ)マイブームといえば、ここのところ出る本を全部買っているのが、いまや能天気本、猟奇本の権威となった感のある唐沢俊一。『古書マニア雑学ノート』の続編が『古書マニア雑学ノート2冊目』(ダイヤモンド社 1600円+税)というそのままのタイトルで出た。みうらじゅんと同じ一九五八年生まれだから四九生まれの私より九つも若いわけだが、それにしては、この人の記憶年齢はふけている。
(中略)唐沢俊一みうらじゅんのやっていることは、一般からみれば「馬鹿らしい」「子供だまし」「変態」などと分類されてしまうもの、ようするに「悪趣味」なのだが、重要なのはこの「悪趣味」をその外側から、覚めた理性で愛情込めて眺めることだ。この「悪趣味道」を最大規模にかつ最も深く実践してきたのが荒俣宏である。

考えるに、この時期唐沢俊一は押し出しのワリによく実態が知られていなかった、ということに尽きると思う。だからこそ、当時やはり「よく実態が知られていなかった」、鹿島のいう「マージナルな世界のキッチュ」な領域を開拓、というかツケ入る隙があったということなのであろう。
この当時唐沢俊一が韜晦趣味を標榜することは可能だろうけれど、今現在それは無理だろう。韜晦人間。 - 唐沢俊一検証blog


ヒカシュー/「20世紀の終わりに」
巻上公一劇団ひとりがドラマで競演、とかいうことはないだろうか?