大人だろ

「オタクのシニカル理性批判」を今回のケースに当てはめて考察するの巻
-イントロダクション【業務連絡・件のブログ】

tiger_ichikawa 大河
@kokogaga (前略)ですので、せっかくなので古賀氏がブログに書かれていた僕への苦言の対しても、せっかくなので返答しておきます。「書いた本人が感想と言い張ろうが批評と主張しようが批判と自認しようが、ネットにUPされた時点で発言責任がある」は、まさに仰るとおりであり
)なんら異論を挟みません。ただ、じゃあ数万人のフォロワーがいる人が数万のリプライを受けたとき、全てに反応する義務があるかと問われたら、義務ではないと思います。
僕は「文句を言われたくない」と主張したいのではなく「馬鹿をかまっている暇はない」と主張したいだけです。「馬鹿とは?」認定は、人それぞれがそうであるように、僕にとっての「馬鹿」も僕が決めます
(だからといって唐沢のように「俺が決めたんだから皆○○氏を馬鹿と呼ぶように」なんて愚劣な考えには至りません)ただそっとブロックするだけです。その権利はあってもよいと思います。(後略)
9月18日

kokogaga 古賀(笛育市)
ブログに書かれていたということは、これは私の発言ではないと思いますがどなたかなあ。 QT @tiger_ichikawa 「書いた本人が感想と言い張ろうが批評と主張しようが批判と自認しようが、ネットにUPされた時点で発言責任がある」
ひょっとしたらトンデモない一行知識さんと混同されているのかもしれません。
9月18日

おそらく件のブログは2011-09-07 - もうれつ先生のもうれつ道場で、該当箇所は出だしの<これらの発言を「感想」と呼ぼうが「評論」と呼ぼうが、批評性の高いものであることではその区別に何ら意味は無く>ではなかろうか?トンデモない一行知識さんはまだこの辺の事柄について記事にしていないと思うけれど……。

-1.【発端】

kokogaga 古賀(笛育市)
仮に@discusaoさんが@tiger_ichikawaさんを「オタクのシニカル理性の体現者」と批判しても、現時点ではその批判は届かないんじゃないかと思います。そのあたりで「大きな枠組みが必要では」と述べました。
9月17日

discusao discussao
@kokogaga 先TWは、別に大河氏を「シニカル理性の体現者」と決めつけてはいない、自分の考えの手の内には「オタクのシニカル理性批判」というカードがある、という意味です。仰せの通り「大きな枠組み」が必要で、私はまだそれを提示できません
9月17日

シニカル理性については断片的に書いてるだけなんですが、たとえばこれ『<唐沢教>信者のシニシズム・アイロニカルな信仰形態』2010-02-13 - もうれつ先生のもうれつ道場
一部加筆編集して再掲します

戦後の思想空間 (ちくま新書)

戦後の思想空間 (ちくま新書)

大澤本で<シニカル理性>が取り上げられているのは、『戦後の思想空間』第3章「戦後・後の思想」第3節「消費社会的シニシズム小見出し4.「啓蒙された虚偽意識」(P.207〜)。
この「消費社会的シニシズム」――広告のうたい文句は誰も真実としてそう言っているわけではない。しかし送り手はそのうたい文句で売り込みをかけていることに疑問の余地はなく、受け手も虚偽と認識している情報を受け入れる結果として、自己の真実が広告に侵食されてしまう、すなわち虚偽の情報が流通する結果として(内面はともあれ)行為としてはそれが真実であるかのように社会的に流通してしまうこと――の補強説明としてペーター・スローターダイクの『シニカル理性批判』が出てくる。

シニカル理性批判 (MINERVA哲学叢書)

シニカル理性批判 (MINERVA哲学叢書)

スローターダイクの本は、<民主的な政治体制が確立していた>と説明されるワイマール期のドイツの思潮・精神が、実は「シニシズムあるいはシニカル理性」というものによって形成されていたと分析したものだという。
シニシズム以前の単純なイデオロギーイデオロギーの対立のばあい、対立する相手の考え方は当人にとっては真実であるので、批判者は<その虚偽性を暴露して、それが当事者には真実に見えてしまう社会的な原因まで示してやれば>済む。言い方を変えれば「啓蒙することが有効」な対立関係である。
『戦後の思想空間』

スローターダイクは4つの虚偽意識ということを言っています。4つというのは、嘘と迷妄とイデオロギーシニシズムです。嘘と迷妄は単純なので、シニシズムの特徴は、古典的なイデオロギーと対照させてみると、よくわかります。
イデオロギーは虚偽ですが、真実であると信じられている虚偽です。ただ、それが真実であると受け取られてしまう原因がある。つまり、イデオロギーの担い手の社会構造上の位置、階級的な位置に規定されて、それが真実に見えてしますのです。イデオロギーを批判するには、その虚偽性を暴露して、それが当時者には真実に見えてしまう社会的な原因まで示してやればよい。つまり、古典的なイデオロギーまでの3つの虚偽意識に対しては、啓蒙の戦略にのっとった批判が有効です。

しかし<シニシズムというのは、自己自身の虚偽性を自覚した虚偽意識>であり、<「そんなこと嘘だとわかっているけれども、わざとそうしてるんだよ」>という態度に<啓蒙の戦略にのっとった批判>は無効である。「それが真実でないことは了解している。つまり自分の裡では既に<啓蒙>は終了しており、その上で意図的に対立する立場に立っている云々」という、小見出しタイトル「啓蒙された虚偽意識」とはそういうことである。大澤はこのように説明している。

どうでもいいことですが『シニカル理性批判』は分厚くて退屈な本なので、もし興味がおありでも大澤真幸の新書のほうで充分事は足ります。
-2.本題
私の大河さんの「感想」への批判は、「感想」と謳いながらイデオロギッシュな発言であるということです。
イデオロギッシュな発言だからナンなんだ?とピンとこないかもしれないので言い替えますが、それはつまり固有の観念論・主義主張を現状の共通認識であるかのように提示することを言い表しており、それを「そうだ」と考えれば(信じれば)、そう考える集合ではそれが真実となり、その現状認識を違うと考える者にとっては虚偽となる。つまり、イデオロギー対立とは現状認識についての観念論・主義主張の対立であります。
大河さんとの場合、大河さんのツイートは単なる感想というより、大河さんが理想とする「検証像」を現状の「検証blog」とイコールで結んだ観念論であり、観念論のベースにある大河さんの正義感・正しさの希求が「検証blog」に託されてしまっているところを含め、その呟きにリアクションがあってしかるべきと判断し「揶揄」を入れました。

回向院(PART2) - 唐沢俊一検証blog

tiger_ichikawa 大河
唐沢俊一検証blog』更新チェック。唐沢による和田慎二追悼論の真摯さの無さはともかく、唐沢の少女漫画論部分に関しては、あくまで個人的心象の域を出ないのだから、どうしても「唐沢はこう言うが、僕はそうは思わないですねぇ」レベルに留まる。検証と銘打つにしては弱い。今回は残念。
7月21日

discusao discussao
唐沢俊一検証blog評論』更新チェック。唐沢が個人的心象に過ぎないものを定説かのごとく記す箇所を検証しているので、「検証と銘打つにしては弱い」とするのは疑問。「杜撰なデータ」を「確定的データ」とする行為は充分「ガセ」に当たるのでは?今回も残念。 @tiger_ichikawa
7月22日

tiger_ichikawa 大河
僕が『唐沢俊一検証blog』に対して呟いている「感想」を「評論」と、勝手に決めつけ銘打って、批判する人がいるのだが、感想と評論は全く違う存在であることに無頓着な人達に囲まれたjkensyouhann氏が気の毒である。評論や検証は「論」を呼ぶが「感想」は自由であるべきだろう。もちろん「感想への感想」も、自由な権利がある。しかし、相手方を勝手に「評論」なのだと(」こちらが自称もしていないのに)レッテルを貼って、それへの反論(のような形で)中傷する輩が跋扈している間は、岡田・唐沢系の駆逐は難しく、世間や第三者は「どっちもどっち」としか見ないだろう
7月22日

discusao discussao
twitterの短文を「評論」などと大袈裟に形容するのはおちゃらけなので、気を悪くされたら申し訳なく思う。とはいえ『唐沢俊一検証blog』についての感想が自由であるように、『唐沢俊一検証blog感想』についての感想も自由であるはずだ。 
追記<感想と評論は全く違う存在であることに無頓着な人達に囲まれたkensyouhann氏が気の毒>twitterでのこうした意見のやりとりは感想と評論の区別とは何の関係もない。気の毒という表現から『唐沢俊一検証blog』を他アンチから隔離するような「批評性」らしきものすら感じる 
<反論(のような形で)中傷する輩が跋扈している間は、岡田・唐沢系の駆逐は難しく、世間や第三者は「どっちもどっち」としか見ないだろう>たぶん私のことだろうけど、私は貴方を中傷していないし、唐沢俊一を「駆逐」する気持ちも微塵もない。充分偏見持ってますね @tiger_ichikawa
7月22日

私の最初のツイートはご本人のツイートを茶化してはいるけれど、言っている内容はフザケていません。<「唐沢はこう言うが、僕はそうは思わないですねぇ」レベルの記事は「検証」と呼べるのか>というお得意の問いかけに対する反論です。
虚偽を暴露する行為、すなわちガセネタを暴く場合は言説の根拠の薄弱さを証明するのだけれど、根拠が示されないまま掲げられた一般論を装った観念論=私のツイートで言う「杜撰なデータ」、この場合は唐沢俊一のこの記述

男のくせに少女漫画なんかを読んでいたのか、と言われそうだが、
この時期、萩尾望都の『ポーの一族』が評判を呼び、SF・ホラー
ファン中心に、男性が少女マンガを読むのが一種の流行のようになって
おり、私も友人たちに『ベルサイユのばら』の面白さを講釈したり
して悦に入っていたものであった。
とはいえ、それはその当時の私たちにとって“異文化”を面白がる
という一種のエキゾチズム、スノビズムの要素が多分にあったと
思えるものだった。あくまでも少女漫画はわれわれにとり、本来、
全く異る常識、感覚で描かれたキッチュな世界であったのだ。

には根拠がない。ない根拠はその薄弱さも提示できない。だから「検証」が根拠の薄弱さを提示していないことも含め、大河さんはこの唐沢の文章を「主観」であるとしているのだろう。つまり唐沢俊一の主観vs検証班の主観だから、結論は判然としないということだ。しかし<根拠が示されないまま掲げられた観念論=「杜撰なデータ」>を「そうは思わない」という検証アプローチは特に珍しくはない。
一九七二―「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」 (文春文庫)
坪内祐三『一九七二』は1972年のディテールについて詳しく検証している本だ。この本の<第19回 箱根アフロディーテとフジ・ロック・フェスの間に>で、'01年フジ・ロック・フェスについての朝日新聞朝刊レポート記事のディテールの杜撰さを指摘している。記事では野外フェスティバルを「60年代に米国で始まり」と書いているのだが、坪内はモントレー・インターナショナル・ポップ・フェスティバル('67年6月)のことだろうとしたうえで、「60年代後半」ですらなく「60年代」と表現してしまう大雑把さを批判している。
ザ・コンプリート・モンタレー・ポップ・フェスティバル 1967 [DVD]
また、フジ・ロックを「ゴミの管理の行き届いた、世界にもまれなフェスティバル―もちろんそこに、管理されるのに慣れきったことや、ロックそのものが保守的になってしまったことを非難できなくもない」と記した部分については、'74年郡山の「ワン・ステップ・フェスティバル」でのオノ・ヨーコの呼びかけや故中村とうようの「とうようズ・トーク」<ヒッピー的生き方の内実>を紹介し、当時から野外フェスでのゴミ処理を含めた管理問題をメンタルな側面でもフォローして考えようという発想がロック・ジャーナリズムにもあったこと、そういったディティールの杜撰な記事が紋切り型の凡評であると批判している。

地球のでこぼこ―とうようズ・バラード (1978年)

地球のでこぼこ―とうようズ・バラード (1978年)

ここでの坪内の展開は当該の検証班記事よりも「朝日はそう書くが、自分はそう思わない」という批判であり、モントレーの「60年代後半」と「60年代」の違いは坪内の問題意識にしかない。
すなわち坪内の問題意識にある「60年代後半」と「60年代」の違いは、杜撰な朝日サイドからすれば坪内のイデオロギーに過ぎないが、坪内からすれば自分のイデオロギーは正当であり杜撰で大雑把な朝日こそが一般論を騙った観念論であるということである。
つまりこの坪内のケースは、大河さんの<「唐沢はこう言うが、僕はそうは思わないですねぇ」レベルの記事は「検証」と呼べない>というのの<「杜撰なデータ」を「確定的データ」とする行為は充分「ガセ」に当たる>という反論の根拠となるデータとしての側面と、杜撰なデータに対する批判で問題となっているのは実はイデオロギー(観念形態)の虚偽についてであるという例の側面の両方を持つ。
ここまでで、大河さんへの批判は虚偽としてのイデオロギー批判であること、ならびに大河さんの検証班への「唐沢はこう言うが、僕はそうは思わないですねぇ」批判は、それが「虚偽としてのイデオロギー批判」として通常の検証作業に認められており成り立ち難いことを説明した。

なお、ツイートのつぶやきは「感想」に過ぎず、それが一般論を騙った観念論やら「評論」などには当たらないといったような反論もされたけれど、<ツイートのつぶやきは「感想」以外の何ものでもない>という大河さんの命題はメタ認知の問題であり、<命題の当否を吟味するための「集合的な知」の場が存在しない>ために成否は問えないものであるし、それを規定する条件は<自己の「感想」認知>より<ツイートというシステムの性質>が優先する。要するに、「そうなのかどうかは何とでも言える」事をもって<ツイートのつぶやきは「感想」以外の何ものでもない>には何の意味もない。詳しくは情報リテラシーについて - 内田樹の研究室参照のこと。
きっこの観念論ツイート<漫画やアニメなんて所詮は現実逃避の架空理想世界。漫画やアニメが流行るのは現実世界が疲弊してるから。現実世界が幸せに満ち溢れてたら漫画やアニメを観る人はいなくなる。>に反論が続出したさい<あたしはあたしの思ったこと、感じたことをつぶやいているだけで、別に誰にも強制はしていません。あたしのつぶやきを聞きたくなければ、あたしをフォローしなければよいのです。>と返信していたのは、大河さんのこのケースにかなり近い。詳しくはきっこ - Togetterを参照してください。
というか、こういうツイートでの小競り合いはよくあるケースだし、上記の揶揄ツイート程度のものを<「感想」を「評論」と、勝手に決めつけ銘打って、批判する人がいる>とカテゴライズの問題=情報リテラシー能力の優劣(こういう考え方自体が上記参照サイトで否定されている)であるかのようにして避けている点で、私の中の藤岡真が「どんだけチキンだよ」と咆哮している(藤岡さん失礼)。*1

私の主張も、端から見れば<大河さんの主張は、大河さん個人の「検証」理想観念を現実の「検証blog」批評の中で一般認識であるかのように提示した虚偽のイデオロギーである>と主張するものであるから、構造としてはイデオロギー対立ということになる。ただし、大河さんはイデオロギー対立を回避している。大河さんは再三私への罵倒を繰り返しているので、一見そこに私への批評・批判があるかのように錯覚してしまうが、具体的な私の言説は殆ど参照されていない。「文句を言われたくない」と「文句を言われる筋合いはない」は違うというのが、知るかぎりで唯一の反論めいたものだが、これだって「筋合い」は大河さんの「discussao馬鹿認定」を根拠としており、その馬鹿認定の根拠は未提出・証明不可能なのだから両者に意味的な違いはない。そのほか<僕のコメントを必死にまとめている役一名と検証班氏は僕の意図を「「唐沢俊一をめぐる諸問題は訴訟で決着をつけるべき」というお話らしい」と総括(じっさいは、私は訴訟の話にタッチしたことすらない)>や<俺のツイートから抜き出しているところは必ず「自分にとって都合の悪いところ」以外>と大河さんの「検証blog」関連ツイートを当日まですべて記載した労作<『唐沢俊一検証blog』感想家・大河氏のあゆみ>2011-09-07 - もうれつ先生のもうれつ道場を批難することなど、回避するために捨て台詞を再生産したような発言ばかりで、そこに何の批評・批判も見出せません。

何故大河さんがイデオロギー対立を回避するか―回避しているように私には写るのかというと、大河さんは私の言説をイデオロギーに値しないと見ているからでしょう。
だから大河さんにとっては、私の発言は
(自覚してついている)嘘か、
(自覚のないまま虚偽状態にある)迷妄か、
あるいはシニカルに他者を見下し「あえて」大河さんの発言に自説を捻じ込んだ嘘つき(=シニカル理性)かに見えているはずだ。
これについても私への「馬鹿認定」「勘違い認定」の根拠が未提出なので、実際はイデオロギー対立になってしかるべきところを嘘だの迷妄だの詐欺師(シニカル理性)の領域とすることで状況回避している、と解釈が可能だ。昨夜yonoさんやDethSeaさんに、自分は洗脳されているとみえるかどうか訊ねていたけれど、むしろ私への「馬鹿認定」「勘違い認定」が妥当かどうか確認されたほうが有効だったはず。*2
古賀さんは「言った言わないの水掛け論」となることを危惧されていたようだ。元来イデオロギー批判、イデオロギー対立は「言った言わないの水掛け論」で終わってしまう不毛な対立だ」と敬遠されてしまうもので、私が大河さんの発言に観念論→一般論の詐術を見出した段階で「言った言わない」の流れになっていたわけです。
私はイデオロギー対立に身を置いて「楽しい」という気持ちとは全く程遠いけれど、イデオロギー批判が不毛なものなのかどうかは良く分からない。見出してしまった対立構造を見なかった振りが出来ないくらいは愚かであり、大人なんだから「楽しい」とか「楽しくない」ということだけで判断してばかりじゃいけないなどと思う今日この頃です。

*1:但し、大河さんはこのところさかんに検証周辺者と会話をされているが、そこでなされている「検証」観念論については特に思うことはない。それは「他者」の存在が介入することで客観性を獲得していることと、他者に気を配った発言をされているからだと思う。とはいえ観念論なので、私個人はまったく身にしみない話だが。

*2:もちろん、そうなったらそうなったで私はブーブー言う