『オタクはすでに死んでいる』への助走(3)

オタク第一世代の貴族主義

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』で提出された世代論、
オタク第一世代:貴族主義
オタク第二世代:エリート主義
オタク第三世代:この世代については上2世代のような吸引力のあるキャッチフレーズは打ち出していないが、P.163の表現でいう「自分の気持ち至上主義」とか、あるいは「萌え世代」とか、あとP.80には「オタク文化の消費者=金をむしられるだけの存在」という、第三世代が聞いたら気分を悪くする言い方もしている。

このうちのオタク第一世代が貴族主義である根拠であるが、断片的な繰り返しが多く難解である。それなりに噛み砕いて自分なりに解釈したところによれば、「一般庶民は与えられた娯楽に充足し常に受身だが、オタク第一世代は時流にながされず嗜好を追求しており、対比として貴族的である」*1、もしくは文字通り「オタク第一世代にとってオタクであることは生まれつきに近い決定事項である(!)」ことによる。
またノーブレス・オブリージという概念を導入し、

「高貴なる義務」と訳される概念で、貴族特有の義務とか、偉いものには権力と同時に義務が与えられる、という考え方です。(中略)貴族は戦争になったら誰よりも早く進んで参戦し、最前線で兵隊より先に死ぬ、という考え方です。

と説明する。すなわちオタク第一世代においては、SF百冊読破程度で一家言もつなどもってのほか、千冊読んで半人前、好みでないもの・理解できないものでも我慢して読破して概要を掴んでおくのは必須だとし、
P.139

多少つまんないやと思っている作品も我慢して見なきゃいけない。第一話ぐらいチェックしなきゃいけない。自らをオタクだと言うのであれば、求道的にならざるをえない。「萌えがわからない」と言いつつも、わからなくてはいけない。そういうことがオタクだと思っています。

P140

オタクをやるというのは(略)人格形成とか修行の場なんだと思っています。

(第一貴族世代vs第二エリート世代対比にて)
貴族「生まれつき、人より賢くてセンスのいい私たち貴族がたしなむアニメって、君たち庶民には理解できないだろね?でも教えてあげなきゃ。だって私、貴族なんだもん」
こういう鼻持ちならない姿勢が貴族だとすると、エリートは違います。
「アニメがわからないのは、お前がダメだからだ!」というスタンスです。
「俺はがんばって勉強して賢くなったから、この作品が理解できる。おまえたちがこの作品を理解できないのは、お前たちが賢くないからだ、ダメだからだ!」
(引用者あんまりなので注・第二エリート世代とカテゴライズされた批評家が、じっさいここで強調されているようにヒステリックな存在なのか否かは、ここでは問わない。ただ岡田のこの対比も、私のように両者から遠い者からすると、どちらも尊大な態度で興味の沸かないご指導をされるという意味で、たいした差異は感じられない。)

こういった事柄が、オタク第一世代のノーブレス・オブリージであると言っている。

ノーブレス・オブリージ
以下はかなり推測が含まれるので、引用以外は眉唾で読んで下さい。
Wikipediaだと「ノブレス・オブリージュ」で出ており、<英語では「ノーブル・オブリゲーション」(noble obligation)と言う。>とあるくらいだから、仏語ノーブレス・オブリージュ (noblesse oblige)の英語読みということだろうか(間違っていたら申し訳ない)?http://http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5

F.A.ケンブル(フランシス・アン・ケンブル。1809-93、イギリスの女優)が1837年に手紙に「‥確かに『貴族が義務を負う(noblesse oblige)』のならば、王族はより多くの義務を負わねばならない。」と書いたのが、この言葉が使われた最初である。

とのことなので、フランスの(かつての)貴族的なものに憧れた英国の新興勢力が創作した「伝統」なんだろうと思う。研究社『新英和大辞典』でnoblesse obligeを引くと

(しばしば皮肉)高い身分に伴う義務。身分の高い者は当然勇気・仁慈・高潔・寛大などの徳をそなえねばならにという考え方から生まれたもの

とあるから、単純に貴族がこう自負していたって話ではないだろう。ファニー・ケンブルことF.A.ケンブルの言説は米国奴隷解放運動の中で語られてきたものであるから、非貴族・非上流側が貴族・上流に求める資質として生まれたと考えられる。
こうした考え方が英国で生まれた背景として、かつては(仏蘭西などに比べ)英国に閉鎖的な階級制度が無かった事情も影響したのではないだろうか?

『英国の紳士』フィリップ・メイソン 金谷展雄訳 晶文社

英国の紳士

英国の紳士

序文P.12

紳士の理念がそれほど広く受け入れられた一つの理由は、だれが紳士でだれが紳士でないか、だれにもはっきりわからなかったことにある。閉鎖的な階級制度がなかったので、多くの人は紳士という言葉に自分を除外しないような、少なくとも自分の息子がなりうると思うものを除外しないような意味を込めた。そんなわけで、広い層にわたって、知識専門職や今日ならホワイトカラーと呼ばれる人々が、自分を上流階級とみなしていた。自分もいつかその一員に加わりたいと思ったからである。典型的なイギリスの中産階級は俗物だった。貴族が好きだった。自分が貴族になることができると思ったわけではないが、息子は紳士になる見込みがあると思い込んでいた。おそらく彼らは、客観的な観察者が妥当と考えるより少々高めの社会階層に自分は属していると思っただろう。それ故彼らは支配階級の側に立っていると考えたのだ。

第1章「紳士らしく振舞え」1節”義務の履行”P.23

こんな風にみてくると、ヴィクトリア朝に書かれた一つの小説(引用者注:1872年の英小説『ミドルマーチ』を指す)の一つの言葉の中に、「紳士」の理想についてのいくつかの示唆が読みとれる。紳士は、周囲の人々の中で自分が占める地位を正しく理解して生きてゆかねばならない。自分の評判に注意し、名誉という言葉の意味するあらゆる事柄に敬意を払った上で、自分の値打ちにふさわしい望みを抱かねばならない。つまり、紳士たる者は、自分が何者であるか理解していなければならないのである。首尾一貫して、芯から誠実に振る舞わなければならない。とりわけ紳士は、人々と自分の相互に義務があれば、自分のほうからその義務を果さねばならないのだ。

繰り返しになるが、結局ノーブレス・オブリージが意味するものは上記引用文からも伺えるような、創作された伝統といえる。特に序文のほう、バブル崩壊までの日本の中流志向に酷似した説明で、岡田の比喩が自世代のそういった卑俗な上昇志向への批判も込めて「ノーブレス・オブリージ」を援用したのなら素晴らしい洞察力だが、もちろんそれは私の深読みに過ぎない。
ついでに、千冊読んでとか求道的に好き嫌いをせずとか言っている岡田だが、『オタクはすでに死んでいる』P.59では

(一般庶民は付和雷同だが)ところがオタクというのは違う。自分が好きなものは自分で決めるわけです。「大人になったからって、司馬遼太郎池波正太郎ナポレオン・ヒルを読まなくてもいいじゃないか。俺はガンダムが好きなんだから」ということです。

と書いていて、これでは第一世代の自立した選択眼を表した表現になっておらず、むしろ岡田自身の説明するところのオタク第三世代の特質――自分の好きなものにだけ充足し、大きなオタク世界観を拒絶する――と同じことであり、「貴族主義」と謳っているその実態はあらためて問われるべきであろう。

以上、堪えきれなくなって批評してしまった箇所もあるが、それはそれ、無かったことでヨロシク。

*1:こういった高貴な自立性によって選ばれたアニメの例が「ムーミン」第一シリーズだったりする。いや、ムーミンが悪いわけではない。岡田が時流に流されないでチョイスしたアニメがムーミンといったところで、ムーミンはかつて「みんなが見ていたヒット作」であり、幼少時に感化されたアニメ作品に耽溺したまま成長しない自分への言い訳と普通は捉えるだろう。じっさいには、岡田がムーミンをそこまで好きかどうか分かったもんじゃないが。ムーミンで貴族なら、「戦え!オスパー」をチョイスしている私など王様になってしまう。