ニセ科学批判の限界1.正しいと思って間違ったことを言ってる訳でもない人びと

以前、M・シャーマー「奇妙な現象をもっともらしくみせている25の嘘」というメモ記事を前書いた。「思いちがいのメカニズム」として疑似科学*1批判の大家シャーマーが挙げた25項目の虚偽や問題点の話で、ニセ科学批判の立脚点がよく分かる項目付けだと思う。これ、もう2年前の記事かぁ…。この25項目のうち、17番目の<「そういうあなたこそ」といった反論は何も生まない>(シャーマー本での正式名称は「<アド・ホミネム>と<チュ・クォクエ>」)についてさらに記述しておく。以下『なぜ人はニセ科学を信じるのか―UFO、カルト、心霊、超能力のウソ』より引用

<アド・ホミネム>と<チュ・クォクエ>
「個人に対して」と「そういうあなたこそ」という意味である。つまり話の焦点を、問題となっている思想ではなく、その思想の持ち主である個人へと移し変える行為をいう。個人に対する(アド・ホミネム)攻撃の目的は、論者の評判を貶めて、その主張への不審をあおることにある。だれかを無神論者、共産主義者、幼児虐待者、あるいはネオ・ナチ呼ばわりしても、その人物に対する反証にはなりえない。特殊な宗教にかぶれているとか、変わった考え方をする人だとか、そういうことがわかればなにかの役にたつかもしれないが、それはそういった調査に影響する場合の話で、本来反論があればそんなまわりくどいやりかたではなく、直接行うべきである。たとえば、ホロコースト否定論者がネオ・ナチや反ユダヤ主義者であれば、それゆえに歴史的な出来事を必要以上に強調するか、あるいは完全に無視するかのどちらかだろう。しかし、ヒトラーはヨーロッパにいるユダヤ人皆殺し計画などたてなかったと主張する人間がいたとしても、「なんだ、そんなこという奴らはネオ・ナチだ」という反応は議論に対する反論ではない。ヒトラーが計画をたてたかどうかは、あくまでも歴史的な問題だろう。「そういうあなたこそ(チェ・クォクエ)」も似たようなものだ。税金をごまかしているのをとがめられて、「まあ、あんたと同じさ」と答えるのは証明でもなんでもない。

このへんの記述に疑似科学批判(ニセ科学批判)の特性と限界性が出ていると思う。
シャーマーの想定はこうだ。ホロコースト否定論者の考え方は本人にとって真実であり、批判者はその虚偽性を暴露してそれがホロコースト否定論者には真実に見えてしまう社会的な原因まで示してやれば説得可能である。こういった、啓蒙することが有効な対立関係をシャーマーは考えている。つまりシャーマーは反社会的な発言、反民主的な発言をする者が理性的な人格であることを前提としており、議論の末の啓蒙あるいは合意、あるいは啓蒙に至らないまでも議論が周知されることによって客観的な審判が下ることをゴールに想定してるのだ。「その人物に対する反証になりえない」とか「反論があればそんなまわりくどいやりかたではなく」といった記述からもそれは明らかだろう。
しかしヘイトスピーチヘイトクライムについての問題が深刻な現在に照らして考えれば、これはかなり太平楽な意見である。
もちろん反証可能性が有効な議論においては、「あの人は…だから」という「人格に対する議論」は反論たりえず、論じられたことに対する評価を議論することが正当性を持つことは言うまでもない。反対に、自説の正当性の根拠を「自分は高潔な人間だ」というモットー的なものに求めたり、自説の根拠となるデータの正当性を「このデータを発信した誰それは信頼がおける人間で」といったふうに発信者の人柄に求めたりすることは、政治の場ではしばしば散見されるものであるが、客観的考察としての説得力はない。
だが、発言内容の正否を問題にせず、反論者との議論を成り立たせず、いたずらに耳目を集めるスキャンダラスで凡庸な断定を繰り返すことで社会に拡散定着しようとするものがヘイト・スピーチやプロパガンダの本質であり、そういったシニカルな意図の言説の前には、科学が持っている「品位あるコミュニケーション」は無力である。このへんはシニカル理性批判の話のときも述べているが、「啓蒙された虚偽意識(=シニカル理性)」にとって理性的な議論対立者は最も御しやすい存在であり、理性的な反論に対し陳腐で意味性を持たないプロパガンダの繰返しによって無効化することがシニシズムの最大の武力となるのだ。反社会的言動を行なう者が理性的対話を成立させるパーソナリティーであるという想定は、本来的には理性的な人物が何か考え間違いを犯して一時的に反社会的言動を行なっているという建て付け見込みであり、その蒙はいずれ説得によって啓かれるのであるから説得を怠ってはいけない、というものである。この「啓蒙」の効果を失墜させるのが、既に蒙は啓かれており(それが「反社会的言動」であると承知しており)その上で「敢えて」反社会的言動を行なうシニカル理性である。
ならばこの対処法は?というと、現状、「まともに相手にしない」「テキトーなレトリックを使いあしらう」という、ネットの議論によくありがちな対応がまず考えられるが、これの厄介なところは、実態としてこれは「シニカルな挑発に対してシニカルな対応で返している状態」に陥っているわけである。「シニカルなイチャモン」に「シニカルな対応」をするのが挑発を千日手に誘導し無効化する手立てとして有効だとしても、それが板に付いて手馴れてくると、「シニカルな挑発」ではない議論においてもそのスキルが発動されている危険性に無頓着となる。また、スキルの発動は応対者の恣意性(「こいつはシニカルな挑発をしかけている」という主観)によるわけで、その恣意性は公平な議論を成り立たせる科学的な啓蒙の正統性をかなり損ねるものである。シニカルさの前に啓蒙は無力だが、シニカルなレトリックを駆使する学者は信頼性が低くなる。「ニセ科学批判」の学者に対する不信というものを見るにつけ、このへんの、啓蒙活動におけるジレンマが大きなネックとなり未だ解消されていないと感じる。

ちなみに――
菊池誠香山リカ『信じぬ者は救われる』より、菊池さんの発言引用

僕らは、あそこまででたらめな話に反証は不要だという立場です。つまり、彼らの主張によれば、言葉の意味だとか、内容だとか、そういうものが物質に影響を与えるというわけだから、そんなとんでもない話は反証するまでもない。現在のあらゆる科学に反するので。

水からの伝言』って、科学的な主張の体をなしていないんですよ。だから、反証しようにも、何をすれば反証になるのか実はよくわからない

これは『水からの伝言』が反証不能である(=反証可能性を持った「科学的言説」ではない)ことの指摘のようにも、敢えて『水からの伝言』について科学的言説としての批判を試みようと悪戦苦闘している表現のようにもとれます。もちろん本来的には前者が正しい。

なぜ人はニセ科学を信じるのか―UFO、カルト、心霊、超能力のウソ

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信じぬ者は救われる

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*1:ニセ科学」と「疑似科学」、二つを区別して使っている人も同義的に用いる人もいる。シャーマー本タイトルが「ニセ科学」なのでタイトルはそれに倣ったが、特にカテゴライズ分けした意図はない。