岡田斗司夫流「コミュニケーション下手のすすめ」

ヤンキー化する岡田斗司夫という話題もありましたが、『AERA』(15-11-16 No.50)に岡田斗司夫と原田曜平の「ライトオタクは商品の夢を見るのか?」というタイトルの対談が載っていた。最近のオタク、オタク第4世代はお金を使わない、コンテンツ=商品という意識が希薄というテーマ。
以下、岡田さんの発言へのツッコミ。

ぼくらオタク第1世代は、時間へのコミットを重視した。(中略)1980年代になると、その次の第2世代が出てきます。彼らには、ビデオやレーザーディスク、プラモデルが用意されていたから、そこに資産を投入した。第4世代は時間もお金も使わないわけですね。

「時間へのコミットを重視した」ってのは、たぶんハードウェアが未発達だったという物理的条件を精神論的に言い替えた表現なんでしょうね。別に第1世代はずっと「時間へのコミットを重視」してたわけではなく、ビデオやレーザーディスクが出てくれば飛びついたわけで、そういうことが精神的な性質や本質であるわけでもないのです。

オタク史においては、宮崎勤事件(1989年)に端を発した凄まじい社会的バッシングがあった。1950年代のアメリカにおける共産主義者、70年代くらいのアメリカにおける同性愛者と同じような社会的プレッシャーの中で彼らは生きてきたわけですよね。それが逆に、あえてカミングアウトするような、ライトなものになってきている。

「50年代の共産主義者」はレッド・パージのこと。それまで比較的自由に活動できていた共産党活動が、冷戦になって途端に厳しく追及されるようになった。あらためて「赤狩り」ってフレーズを見ると凄いね。それに対して「70年代くらいの同性愛者」ってなんだろうね?むしろ同性愛者解放運動は60年代から70年代にかけて盛んになるのだけど。ジェローム・ロビンズは、ユダヤ人で共産主義運動にコミットした過去を持ち、同性愛者であった。もちろんカミングアウトなんかしていない。
オタク史をユース・カルチャーとしてどう見るか、という問題でもあるけれど、89年の事件がきっかけとなってバッシングがあったのはそうだが、同時にオタクという存在にがぜん注目が集まったということでもある。それ以前は(喩えが古いが)「体育会系」に対する「文化系」のごとき存在で、「若者文化」としてカウントされていなかった。それが負の視点からだがユース・カルチャー的に注目されるようになり、カウンターとして宅八郎さんや岡田さんなどが現れてプラスの評価というものが流布されるようになった、というのが大まかな流れ。
つまり、89年以前は、自分がオタクであるとカミングアウト(というか、「オタク」というカテゴライズが一般的に定着してないので、「オタク」的な趣味性を他者に披露する程度のことになろうが)したところで尊重もされないが迫害もされない、人によって、興味を抱いてくれたり、共感を得てくれたり、気味悪がれたりするだろうが、注目を浴びるユース・カルチャーとは言えなかったぶん、バッシングを受けたというほどのものでもなかった。それは良くも悪くも89年から始まったんだろうね。

(TAMIYAのTシャツをゴールデンボンバー鬼龍院翔が着ていたことに若者が影響されたことについて)東京・新橋にあるタミヤ・プラモデルファクトリーという公式ショップに聖地巡礼みたいにして行くと、プラモデルのコーナーはスーッと通りすぎて、一番奥の雑貨のところに行って、Tシャツ以外で買えそうなものを探す(笑)。そこでプラモデル専用の、普段の台所にはまったく使えない丈夫なエプロンを買っていくと。オタク的に言うと、ショップの中だったら、自分の好きなものを買うんですけれども、彼らは買えそうなものというか、使えそうなものを買うので、まったく方向性が違う。あくまでも人に見せたり、インスタで自撮りした時に映えるようなものを買って帰っていく(中略)撮って、ソーシャルメディアに上げる。そのために自分を盛る。盛り文化と呼んでいます。

「方向性が違う」のは、単にプラモデルのオタクじゃないからなんじゃないの?それと自己PR的にコレクションを飾りたてることは、マニアではごく普通に行われている(「コレクション」「博物誌」的な流れ)。コレクション行為に逸脱が起これば、岡田さんの指摘するような、他者に見せることが目的化することも世代に関係なく普通に起こる。

個人個人が自分の個性を出すのではなくて、セレクトショップ化する。自分の好きなものを並べて、トータルで私です、と。
ただ、自分はこういうふうな人なんですという個性を出して、アピールをして、差別化して売り出して、というのを無制限に続けていると、人とのコンタクト時間、コミュニケーション時間が最大化してしまいますよね。結局人生を生きていくということが、自分自身への問いかけではなく、他者に対してのアピールが大部分になっていくので、自分自身が商品化していく。そうすると、はやってないものはアピールにならないので、自分の好みの中に取り入れられなくなってしまって、実ははやりものばっかりが並んでいる無個性なセレクトショップになっていく。
(中略)
個性というのは人に見せてナンボ、いわゆる盛り型の個性と、本当に自分がそうであってしまうという個性があるのですが、人に見せてナンボの個性ばかりやってると、そっちの筋肉は発達するんですが、自分の内面の個性がなくなってきてしまって、いわゆる教養の崩壊みたいなもの、個性の崩壊が起きる。

寺山修司的な「書を読め、街に出るな」みたいなカウンターってことでしょうか…。コミュニケーション下手のすすめ、ティーンエイジ・コミュニケーション・ブレイクダウンのすすめ、か。「セレクトショップ化」というくだりはずいぶん偏見が入ってるなぁと感じるのですが、岡田さんの口から「人生を生きていくということが、自分自身の問いかけ」というフレーズを聞くとは思いませんでした(正確には「読むとは」か)。

オタク作品についてもモノ申しております。

今のオタク作品を見てもそうなんですよ。第1話から、これはこういうキャラなんです、こういう楽しみ方をしてください、こういう声優さんを揃えましたよという、面白がりポイントが明らかにわかるアニメだけが売れてるんです。そのアニメを見たとか、このアニメの中でこれが好きだというだけで、自分のキャラ付けになるようなアニメばっかりが出てくる。今のライトオタク層に向けた作り方をしだしているんですよ。
スタジオジブリ宮崎駿さんが、ああもう映画を作れないと思ったり、「エヴァンゲリオン」の庵野秀明君が今のアニメファンに対してものが作れなくて絶望するのも、そこら辺に理由があるのではないでしょうか。
かつてのオタク文化みたいに、人生を捨てて、人に隠れてやるというコスパの悪い趣味から、あらゆる自己アピールの中で飛び抜けてコスパがいいものになった。オタクであること自体が商品になっちゃったんですよね。コスパというのは、何かの作品を好きになるとか、知るためのコスパでなくて、アピールするためのコスパ

この引用の前半部、アニメ作品の変容について述べたところは、そういう特定の方向性に特化させた変容に導いたのはオタク第1世代だか第2世代だかなんじゃないかな?と思う。もちろん、「もし、その批判が正当なものだったとして」という前提であるが(すべての岡田さんの言説に当てはまるが)。
コストパフォーマンスの悪さを奨励するのに「コスパ」という経済的な表現を使う哀しさよ(詠嘆)。

AERA 2015年 11/16 号 [雑誌]

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ジェローム・ロビンスが死んだ (小学館文庫)

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