「純粋化」について&大澤真幸へのツッコミ。

kensyouhanさんとこでのやりとり唐沢俊一の新刊情報&斎藤環へのツッコミ。 - 唐沢俊一検証blogから、ここしばらく「虚構化」と「純粋化」といったキーワードについて考えを巡らせていました。戦後の思潮を「理想化」の時代から「虚構化」の時代へと区分したのは大澤真幸。それからオウムだとかがあって以後また新たなステージに入ったとかなんとか。それが「純粋化」の時代?ああ、東浩紀は「動物化」と称えてるのか。まァ、そんな話です。
で、その大澤先生の『現実の向こう』を読んでみたのですが、おたく批判をしている興味深い箇所がありました。ちょうど「純粋化」にからんだ言及にもなっているので、今回はこれについて書いてみます。

実際、おたくが書いたおたく論は現在たくさんありますが、どうしてそんなに大袈裟なのかと驚くことがよくあります。たとえば、2年くらい前、東浩紀が編集した『網状言論F改』という本の書評を書いたことがある。これは、まさにおたくによるおたく論集です。東さんの論文は、彼の『動物化するポストモダン』という本のエッセンスを凝縮したような論文でなかなかおもしろいのですが、この本の中に入っているいくつかの論文は、特に若い人の論文は―内容の水準とは関係なしに―ときどき、読んでいると笑いをこらえきれないところがある。たとえば「エヴァンゲリオン以前/以後」とか凄く大事件としてかかれていて、まるで、第二次世界大戦エヴァンゲリオンの登場が同じくらい重要であるかのような印象が漂うわけです。いくらなんでも、それはどうかなあ、と思ってしまうわけです(笑)

そして大澤がそう考える理由は、『網状言論F改』の諸筆者を含めた「おたく」の論じている話が「情報の有意性」、すなわち「そう主張することの意味があるのか」という「言説の存在意義」から乖離して、情報量やディティールへのこだわりに集中しているアンバランスさにあるという。

しかし「おたく」の場合、意味的には全然大したことがない。つまり、より広いコンテキストに参照して価値があるようなものではない。しかし情報の密度は高い。それが「おたく」の特徴だと思うのです。意味的には希薄で、情報的には濃密という、逆比例の関係が生じている。(中略)有意味性へのレファレンスを欠いたまま、どんどん情報が細部にまでおよんでいく。「おたく」にはそういう特徴がある。

大澤真幸が言わんとしていることは、「純粋化純粋化とリキんで正確さを保証する情報量や細部への言及に拘泥したところで、おおもとの根拠となるべきレーゾン・デートル、有意性への配慮を欠いた論説に説得力はない」ということなのでありましょう。それも一面の真実はあると思います。でも『網状言論F改』の筆者―特定はできない。<特に若い人>といっても一番若いのが東浩紀だし、ということは次に若い伊藤剛さんか竹熊健太郎さんになるのか―は別にギャグじゃなく<第二次世界大戦エヴァンゲリオンの登場が同じくらい重要である>というノリで書いていると思うけれど。
ということはこれは書き手と読み手の立場の問題で、大澤真幸は「おたく」じゃないから(あるいは<大澤真幸は「おたく」を突き放して捉えているせいで自己の「おたく」的要素を棚に上げているので>)「おたく」が情報量や細部にこだわる意味が読めないというだけではないだろうか。高木東六が卑俗な歌謡曲を唾棄したり、淡谷のり子が演歌を腐したり、はたまたかまやつひろしが『ラバーソウル』以後のビートルズに興味を失ったといった、そういうギャップのような気がする。
そういう私もバイアスがかかっているので、以下の大澤の1960年代の歌謡曲についての記述は読んでいて<笑いをこらえきれ>なかった。

日本の歌謡曲の歴史でみても、この時期は、かなり大きな転換点になります。いわゆる「ヨナ抜き」音階といわれる、演歌などで使われる半分伝統的な曲調が、この時期に完全に払拭され、純西洋的な曲調の音楽が作られるようになった。また演歌もコブシをつけますけど、典型的には浪花節のような、あの手の古典的な発声がありますね。その特徴は、浪花節を思いだしてもらえばわかりやすいのですが、肺から音を出すときに、あえて喉とか鼻に抵抗をつくってダミ声にすることです。こうした発声法を艶色調といいます。それまでは、こうした発声法が日本の音楽のかなりの部分を占めていた。しかし、この時期にはじめて、肺から空気がすっと、抵抗なしで出てくる発声法の曲が主流となる。たとえば「上を向いて歩こう」とか「スーダラ節」が出てくるわけです。

たしかに1960年代の歌謡曲に転換点はありましたでしょうが、<演歌などで使われる半分伝統的な曲調が、この時期に完全に払拭され>た形跡はありませんし、<純西洋的な曲調>というのが具体的にどういったニュアンスを指しているかむつかしいけれど<西洋的な曲調の音楽>は歌謡曲誕生から数多く創作され、相対的にはむしろ60年代以降の楽曲のほうが<非西洋的な曲調>のものが増えたことは小泉文夫の大昔からさんざん指摘されている。だいたい演歌が昭和30年代あたりから誕生した若いジャンルだし、船村徹に代表されるコブシの利いた楽曲もそれ以前には皆無であったわけで、大澤がここで古い古いと言っているものはすべて(浪花節を除く)、実際はこのころ発生したものだったりする。
だからいつものクレバーな大澤の論理展開からすれば、そういう新しく発生したものが発生した段階で既に「伝統的なもの」「ドメスティックなもの」として受容されたこと、そうしたものに底流する「虚構性」を論ずるべきであった。基本的には大澤先生おもしろいと思っているのでちょっとガッカリってとこです。先日のつづき(文藝批評家はGSを認知しないのだろうか?) - もうれつ先生のもうれつ道場のときも感じたけれど学者タイプってこの手の話のときどうしてつまずくのだろうか(あ、小谷野敦は歌謡曲がどうのこうのじゃなくて、「若者がキライ」ということなんだろうけれど)。

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