1972/2015 ジャズ、ボサ・ノヴァ、自己否定、自己犠牲
唐沢俊一検証blogさんの10月15日の記事に『新潮45』9月号の内田樹と桐野夏生の対談の話が出てくる。1972年という年を舞台にした桐野の小説『抱く女』を中心にしたトークで、全共闘闘争が大きな運動として収束し始めた、坪内祐三の表現を流用すれば「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」の1972年と現在とを語っている。
で、「ああ、kensyouhanさんも自己否定(もしくは自己犠牲)の物語について、感動する回路を持ってるのか」といった感想があったので、対談の現物に当たってみた。
以下、「抱く女の時代」-1972年クロニクル(内田樹+桐野夏生)より、ジャズの話と自己否定の話の部分の引用と要約。
内田:僕らは喩えて言えば「祭に行ったら、もう終わってて、後片付けが始まっていたけど、まだそこここにたき火が残っていて『あたっていきな』と言われた世代」です。50年生まれか、51年生まれかで眺めた政治的風景が違うんだロッキング・オンの渋谷陽一君がよく言うんです。彼は51年生まれで、坂本龍一、忌野清志郎と同学年なんですけれど、僕や高橋源一郎と一年違うだけなんだけど、その一年が違うんだって。
- ジャズのこと
内田:あの頃のジャズは「尖っていればいい」「わかりにくければわかりにくいほど上等」という独特の美学で律されていましたよね。だから、ラムゼイ・ルイスとか、ハービー・マンとかマル・ウォルドロンなんて、僕は好きだったけれど、ジャズ通は眼を三角にして怒ってましたね。あんなのはコマーシャルだって。
(中略)
オスカー・ピーターソンをリクエストしたら店の人から舌打ちされた。チェット・ベイカーがかかったら立って帰る客がいたり(笑)。でも、これが本当のジャズで、あれはインチキっていう基準って、本当に微細な、言ってみれば空気みたいなものなんです。桐野:何でなのか説明してよと言っても、とーしろ(素人)が! でおしまい。ジャズ名人みたいなのがいて、どうにも太刀打ちできないんです。
内田:70年頃にふっとビーチ・ボーイズが聴きたくなったことがあって、まわりの友だちに訊いたけど誰もレコード持ってないんです。レコード店に行っても置いてない。ちょっと前までみんなあんなに聴いていたのに…。69年くらいを境にいきなり音楽に対してみんな不寛容になりましたよね。「エヴァリー・ブラザーズが好き」って言ったら、R&B好きのやつにバカじゃないのとせせら笑われたり。そういう差別を受けたことはいまだにルサンチマンとして引きずってますね。僕もオーネット・コールマンとかセシル・テイラーとか我慢して聴いてましたけど。
内田樹は、ジャズを聴き始めた時を1969年9月と正確に覚えている。それは『スイング・ジャーナル』10月号の発売月であり、同年の夏休み、兄が『ゲッツ&ジルベルト』を買ってきて夏中そればかり聴いて「よし、これからはジャズだ」と決心、『スイング・ジャーナル』の定期購読を開始したという経緯があったからだという。
- 自己否定
桐野:自己否定といえば、自分のプチブル性を否定しなきゃいけない、それを言われると、本当に苦痛でしたね。このプチブルめ!と言われたら小さくなるしか無いでしょう。
(中略)
小説にも書きましたが、ウーマンリブのコミューンに行っても、結局は階級差の問題を解決できない。そうやり込められて、じゃあどうすればいいのか、と迷うしかない。当時は、優生保護法の改悪問題があって、リブも燃えていましたからね。中絶理由の「経済的理由を削る」という案を撤廃させるのが最優先課題でした。産めよ増やせよ、は嫌だと。もうひとつは障害者差別でした。72年榎美沙子さんの中ピ連が出てきた年です。女性解放運動はやり方も含めていろいろ批判もされますが、その思想で解放された女性も多かった。それでも、一枚岩になれないのが、プチブルだとか軟弱だとか、その手の攻撃性のためでしたね。互いにそれで評価し合って傷つけあっていた。内田:あの全共闘世代に固有の事故処罰・自己否定のロジックが僕はほんとうに嫌いでしたね。ピュアでクリーンで、身体も生活も軽んじて、ほとんど自殺すれすれくらいの生き方をしている人間が一番偉い。そういう人間には対抗できない。
桐野:そうなんです。だから「死は最強」になるのですよね。『抱く女』の中でも書きましたが、自殺者が一番勇気があって、偉い、ということになってしまう。
連合赤軍の山岳ベース事件で亡くなった男性が内田と高校で同期という話、「ハンサムで、頭が切れて、いいやつでね」
内田:内ゲバで仲間の学生を殺したやつらが刑事罰を受けることなく、そのあと運動から足を洗って、普通にサラリーマンになっている。
(中略)
そういう暴力性を正当化したのは結局は活動家たちの「自己否定」のロジックでした。自分はこれだけのものを犠牲に差し出したのだから、何をしても許されるという驕りのせいで他人への攻撃性にブレーキがかからなくなった。
自己否定の話は、『二十歳の原点』の高野悦子や漫画家の山田花子、70年代の岡田史子や大島弓子の漫画作品を連想する指摘。
ジャズについていえば、岡田斗司夫の宮沢章夫へのツッコミじゃないけれど、そもそもジャズを選択した段階で背伸びしているわけで、内田先生の義憤は分からなくはないけれどそれは当時の内田さんにも帰ってくる批判だろう。今と比較して、当時は圧倒的に情報が不足した状況にあり、特別なモノを知っていることや、特別なモノをいいと思う感性を持つことが評価の対象となった。それは、内田樹と交流があった大瀧詠一(およびその音楽活動の出発点となったはっぴいえんど周辺)の価値基準でもあり、だからこそ年内をもってはっぴいえんどは解散し、大瀧詠一はナイアガラの道を進んでゆく、といった1972年の展開があったのかもしれない*1。「わかりにくければわかりにくいほど上等」の究極・阿部薫が好んで「アカシアの雨がやむとき」や「チム・チム・チェリー」をモチーフに使ったりしたように、まぁ本来的には、チェット・ベイカーもオーネット・コールマンも、富岡多恵子「仕かけのある静物」も土田よし子『きみどろみどろあおみどろ』(ともに1972年作品)も等価に観賞できる感性が期待されるのだろう。
反省的に考えると、こういうことを書くこと自体が、依然「尖っているモノ」を良しとする感性である証しなのかもしれない。
たとえば、ジョアン・ジルベルトとアストラッド・ジルベルト。どちらもボサ・ノヴァを代表するアーチストだが、テクニカルな観点からすると、ジョアンは「一見アマチュアっぽいが、異常に鍛錬され即興的自由を表現できる神業の持ち主」で、アストラッドは「良い意味でも悪い意味でも味で聴かせるアマチュアリズムの人」だ。
同じ曲でもギターのコード・ワークや歌い方が毎回微妙に異なりそこに即興的魅力があるというのは、落語に近いモノがあるんだろうね(落語にはウトいけど)。
前に、ジョアン・ジルベルトがあの歌い方を編み出したことで、「ヘロヘロな歌い方もアリ」って風潮も生まれたと発言して、高橋健太郎さんから「ジョアンのあの歌い方って、すげー技アリ」とツッコまれたことがあった。これは確かにそうで、言いたかったことを訂正すると、ボサ・ノヴァのヘロヘロな歌い方の影響ってのはジョアン・ジルベルトよりアストラッド・ジルベルトの方向で決定されたんじゃないか?ということだった。
貧乏ゆすりしながら自分のギターの伴奏だけで歌う老人の歌は「尖ってる」とも「わかりにくい」とも感じられないが、最近の日本のボサ・ノヴァ愛好家にあってはジョアン・ジルベルトの評価は絶対的で、そういった意味では高橋さんも私も「ボサ・ノヴァ名人」なのかもしれないね。
また、「わかりにくければわかりにくいほど上等」とは考えないが、湯浅学じゃないけれど「頭では整理できない(わからない)からこそ魅力に感じる表現」があることも否定できない。
桐野さんが言っている「障害者差別」ってのは、当時は優生保護法だけじゃなくて「親族による障害者殺人」といった問題もあって、原一男の初ドキュメンタリー『さようならCP』(これも1972年)に出てくる脳性麻痺者による団体「青い芝」はこのことを告発していた。原一男は『さようならCP』の次に離婚進行中でウーマンリブ運動に参加した妻を撮った『極私的エロス・恋歌1974』を発表(作品のクランク・インは72年から)しており、桐野夏生の発言にリンクしている*2。原さんは、今も『アクト・オブ・キリング』の作者を一蹴したりして、ラディカルというか血気盛んというか、自己否定とか自己犠牲に一脈通じるところがあるよね(本人はそうじゃないというかも知れないが)。
自己否定したり自己犠牲に陥ったり(ひるがえって他者を否定したり他者に犠牲を強いたり)するのは、内面的なラディカリズムに殉じて絶対的なモノ・普遍的な価値観がどこかにあるという考え方で、絶対性や普遍性を想定しているという意味では唯我独尊と同じ認識と言える。荒川強啓デイ・キャッチでの対談で、宮台真司は奥田愛基、SEALDsの活動の特徴として、
民主主義って何だ?って一生懸命考えて、考えた後で行動するんじゃないというところ。動きながら、経験を通じて考えていくというところが凄く大事。そういうことはプラグマティズムと称される。何が真理なのかということを先ず探求してから進むという考え方を徹底的に否定する考え方、むしろ経験を通じて成長することが学びであり、その学びが教育であると同時に民主主義である。あらかじめ決まった結論に数合わせ的多数決は民主主義じゃない。
と指摘している。オタク的な感性(あるいはオタク的な感性から派生した?ネトウヨ的感性)が社会運動やSEALDsという存在に否定的なのも、kensyouhanさんの言う「自己否定という概念がつきまといやすいオタクやマニア」の感性が作用しているのかもしれない*3。
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