山下敬二郎:日劇ウエスタン・カーニバルまでの歩み

 山下敬二郎のキャリアは「ウイリー沖山の弟子」*1から始められるのだけれど、それはウイリー沖山(当時はウイリー・ジェームス)のバンド「ブルー・レンジャーズ」のバンド・ボーイだったという意味だ。同時期『骨まで愛して』の城卓矢(当時は菊地正夫)も沖山に弟子入りしており、「ブルー・レンジャーズ」で城と山下は同じボーヤ同士*2

城卓矢ヨーデルが炸裂する名作『トンバでいこう』この曲はカントリーじゃなくて「ロス・パラガヨス」のナンバーのようなラテン。
 同バンドのギタリスト瀬谷福太郎の話すエピソード<その頃、あの柳家金五郎さん(原文ママ)から預かって、バンドボーイをしながらウイリーさんからウエスタン・ヨーデルを習っていた山下敬二郎も居た為、バンドの練習ともなると2人でユーレイ、ヨーレイやるんで、大変うるさかった記憶があります*3>。
 ウイリー沖山のジャズ歌手への転身により「ブルー・レンジャーズ」は解散(1957年)するが、この間の山下敬二郎の動向はどうだったのだろうか?経歴では「ブルー・レンジャー」から「マウンテン・ボーイズ」に移籍していて、問題はいつ移ったかということなのだけれど、
(1)「ブルー・レンジャー」解散前の1956年に大野義夫の「マウンテン・ボーイズ」*4に移籍していた。
(2)瀬谷福太郎の記述だと、山下は1957年の雪村いづみ東北巡業にも「ブルー・レンジャー」ボーヤとして同行していることになっている。これに倣うと「ブルー・レンジャー」の解散まで付き合い「マウンテン・ボーイズ」に加入、その直後「マウンテン・ボーイズ」は解体し「サンズ・オブ・ドリフターズ」の結成に参加、5月5日の「ウエスタン・カーニバル」の舞台で注目を集めるという目まぐるしいことになる。注記.7の大野義夫の記述だと「マウンテン・ボーイズ」のボーカルにミッキー・カーチスらの名前はあっても山下敬二郎はない。*5。ついでに言えば、「親分肌の沖山のところには多くの若手業界人が集まっていた。雪村いづみもいたし」この唐沢俊一の追悼文だとウイリー沖山が雪村いづみを抱えているかのような記述になっているが、メインの歌手と雇われバック・バンドの関係に過ぎない。
 ザ・ドリフターズは1956年<「マウンテンボーイズ」と「東京ウエスタンボーイズ」が合併し「サンズ・オブ・ドリフターズ」として結成*6>された。山下敬二郎はリーダーの大野義夫*7とともに「マウンテン・ボーイズ」からの参入組*8
 ウエスタンの祭典「ウエスタン・カーニバル」は1954年から始まり年に2回(春秋)で定期的に開催されていた。1956年の第2次カントリー&ウエスタン・ブーム(第1次は「チャック・ワゴン・ボーイズ」らが活躍した1951、2年)から多くのバンドがロカビリーをレパートリーに入れだしていた。
 1957年5月5日有楽町ビデオ・ホールにて開催された「ウエスタン・カーニバル」に(たぶん加入間もない)山下敬二郎の「サンズ・オブ・ドリフターズ」が参加した。この回は総勢48名のが出演し、バンドのほうも、ロカビリー専門の看板を掲げた「ブーツ・ブラザース」、3月に立教大生中心に結成されミッキー・カーチスと山下俊郎を擁した「クレイジー・ウエスト」(『ハウンド・ドッグ』『シェイク・ラトル&ロール』)、フェンダーで統一し関口良信、岡田朝光がボーカルの「ウエスタン・キャラバン」、人気絶頂の「オールスターズ・ワゴン」(井上高・平尾昌章)、老舗の「ワゴン・マスターズ」など錚々としたラインナップだった。山下敬二郎はというと、エルヴィスの(というか当時の呼び方ではプレスリーの)『どっちみち俺のもの』とパット・ブーンの『ドント・フォービット・ミー』で客席を沸かせた。
 この頃、ロカビリー・ブームの影響とメンバーの世代交代などが理由で、ウエスタン・バンドの編成変化や新バンド結成、メンバーの移動が頻繁に発生していた。堀威夫が小坂和也人気に胡坐をかいた「ワゴン・マスターズ」と決別し「スイング・ウエスト」を結成、「ワゴン・マスターズ」のほうは小坂独立で解散に至り、ウエスタンの興隆に古くから関わってきている「オールスターズ・ワゴン」の鳥尾敬孝が大学卒業のため引退*9・平尾昌章に引き継がれる。ミッキー・カーチスは「クレイジー・ウエスト」を脱退し6月に「ブーツ・ブラザース」を結成したが11月になると「クレイジー・ウエスト」を再編させた。こういった流れの中で山下敬二郎も「相沢芳郎とウエスタン・キャラバン」(曲直瀬プロ)に引き抜かれ、11月3日於ビデオ・ホールの「第7回ウエスタン・カーニバル」開催に到る。
 村松友視(示見)は「日劇エスタン・カーニバル」の山下敬二郎を観ており、この不世出のロカビリアンのリアル・タイムな回想をしている。唐沢俊一の追悼唐沢俊一ホームページ :: ニュース :: イベント :: 2月5日投稿と比較しながら読んでほしい。

村松友視(示見)『黒い花びら』より

本家のポール・アンカを除いて私がもっとも好きなのは、山下敬二郎の「ダイアナ」だった。「バルコニーに坐って」も、私にとっては下手をすると本家のエディ・コクランよりランクが上である。おそらく、ロカビリー時代の山下敬二郎のカッコ良さが、私の頭に灼きついているのだろう。他の歌手たちが、どこか自分たちを扱う大人の芸能界に、あわよくば取り入ろうとしている気配があった中で、山下敬二郎は毅然としてトッポイ不良を守り通しているように見えた。永遠の立ち喰いそばであり、絶対に老舗のそばに媚びないという不良番長の気概を、もっとも強くただよわせていたのが山下敬二郎だった。


 「ウエスタン・カーニバル」の本拠地、有楽町ビデオ・ホールはキャパ400のハコだった。ウエスタン・バンドとしてはいちはやく日劇の舞台を踏んだ「スイング・ウエスト」の堀威夫は、「オールスターズ・ワゴン」の鳥尾敬孝、楽譜出版「シンコー・ミュージック」の草野昌一とともに日劇での「ウエスタン・カーニバル」を開催する企画を練っていた。その途中「オールスターズ・ワゴン」を脱退した鳥尾が手を引いたので、彼の代わりとして新興芸能プロ「渡辺プロダクション」の渡辺晋に打診したのだけれど、ジャズ屋の渡辺がウエスタンやロカビリーなんぞに手を染めるわけにはいかず(つまり注記.3の瀬谷の記事にもあるように、ジャズ・ミュージシャンはジャズ以外の音楽を基本軽蔑していた*10)妻の渡辺美佐が任されることになった。
 ここから「ロカビリー・マダム」渡辺美佐が「ウエスタン・カーニバル」を牽引してゆく運びになるのだけれど、各プロダクション、レコード会社の思惑などもあり、実体はもっと複雑な動きがあったはずである。前記のように山下敬二郎の「ウエスタン・キャラバン」は曲直瀬プロ所属だったのだが、山下本人は「第一回日劇エスタン・カーニバル」以前にナベプロに移籍している*11。曲直瀬プロの曲直瀬社長は渡辺美佐の父であり、美佐の妹信子は以前からのロカビリー・ファンで「日劇エスタン・カーニバル」人選にも大きく関わっている。「第一回日劇エスタン・カーニバル」は1958年2月8日〜14日だが、4月には山下敬二郎のデビュー・シングル「バルコニーに坐って/ダイアナ」が新興レコード会社「東京芝浦電気」のエンジェル・レーベルからリリースされている。
 当時のレコード会社は作詞家・作曲家・歌手すべてが専属制で、新興の東芝は邦盤製作のために新たな人脈を開発しなければならなかった。主だった音楽事務所はすでに専属が決まっていたので、同じ新興同士のナベプロと手を結んだのは自然なことだった。山下敬二郎はその先陣を切って送り込まれ、アレンジは「渡辺晋とシックス・ジョーズ」のピアニスト中村八大だった。この流れには音楽出版シンコー・ミュージックも参入し、ロカビリー・ブームのすぐ後のカバー・ポップス・ブームで頂点を極めるのだけれど、切り込み隊長だった山下敬二郎はその恩恵に与らなかった(ナベプロすら離脱していた)。
 山下敬二郎のことを整理すると、「(ウイリー・ジェームス&)ブルー・レンジャーズ」は1957年の雪村いづみ東北巡業の後解散、山下は大野義夫「マウンテン・ボーイズ」に加入(もしくは非加入)後、併合バンド「サンズ・オブ・ドリフターズ」結成に参加し5月5日「第6回有楽町ビデオ・ホール・ウエスタン・カーニバル」で脚光を浴びる。同年11月5日の「第7回有楽町ビデオ・ホール・ウエスタン・カーニバル」には「ウエスタン・キャラバン」に移籍しており、翌58年2月の「第一回日劇エスタン・カーニバル」で大ブレイク、4月にレコードデビューという流れとなる。「ウエスタン・キャラバン」移籍に曲直瀬信子が絡んでいないとは考えにくい。山下個人のナベプロ移籍及びレコード・デビューは渡辺美佐の活躍が大きいのだろうが、曲直瀬プロは山下の抜けた穴を水原弘で埋め『黒い花びら』のヒットでお釣りがくるまでに盛り返している。ハワイアン・バンド「ルアナ・ハワイアンズ」の水原弘を「ダニー飯田とパラダイス・キング」に引き抜いて急造のロカビリアンに仕立て上げたのもおそらく曲直瀬信子なのではないかと邪推すると、曲直瀬プロとナベプロの協調しているような反目しているよな不思議な関係がどうしても気になってくるのだ。ナベプロ入りした山下は「ウエスタン・キャラバン」からも離脱し58年8月26日〜9月2日「第3回日劇エスタン・カーニバル」では「レッド・コースターズ」を率いて出演した。この回はポール・アンカがゲストで、かつて山下が在籍した「(サンズ・オブ・)ドリフターズ」は新人坂本九をフロントに据えて参加した。
 話をキャパに戻すと400人収容の有楽町ビデオ・ホールから日劇に舞台を移し、「第一回日劇エスタン・カーニバル」は一週間公演で総入場40,522人の記録を達成した。これがニュースとなって全国的にロカビリーが知られる契機となった。ビデオ・ホールの「ウエスタン・カーニバル」のほうも継続され、またコマ劇場でも同様なショーが催されてTV中継されたのだが、それがかえって良識の反発を招き、2年ほどTVから締め出されたのは前の回の北中正和『にほんのうた―戦後歌謡曲史』の記述にあった通り。

「敬ちゃんのロック」+「涙の紅バラ」

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日本ロック大系〈上〉

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城卓矢 名曲集

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スイスの娘

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愛のサンシャイン

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黒い花びら (河出文庫)

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全曲集

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ナベプロ帝国の興亡 (文春文庫)

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にほんのうた―戦後歌謡曲史 (新潮文庫)

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いつだって青春―ホリプロとともに30年

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東京ラブシック・ブルース (角川文庫)

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*1:山下敬二郎 - Wikipedia

*2:城卓矢 - Wikipediaバンド名は瀬谷福太郎の証言から「ブルー・レンジャーズ」が正しいと判断。スチール・ギターに「シャボン玉ホリデー」のディレクター・プロデューサー秋元近史がいたりする。瀬谷は後に「寺本圭一とカントリージェントルマン」にてギタリストとしての名声を確立し、「ヴィレッジ・シンガーズ」の小松久らカントリー系GSギタリストらを育成した。

*3:カントリー四方山話

*4:中黒はバンド・リーダー大野の記述を採用した

*5:ただし瀬谷の回想のほうも、「間違いなのでは?」と思う記述も多い。のだが、話全体としてだいたい吃驚するエピソードで占められていて、若輩はただ頷くしかない

*6:ザ・ドリフターズ - Wikipediaここでは<グループ名は、アメリカのThe Driftersに傾倒していた岸辺が、自分達のグループをDriftersの息子たちと自負して命名>という説が紹介されている。リズム&ブルースのコーラス・グループ、ザ・ドリフターズ(ベン・E・キングじゃなくてクライド・マクファターのほう)のヒット曲『マニー・ハニー』なんかはちょとカントリーっぽい。だから、岸辺清がR&Bのドリフターズにあやかって命名した可能性も否定できない。しかし、併合前の2バンドともウエスタン・バンドであり、ここで「ドリフターズ」といわれているのは、ハンク・ウィリアムス&ドリフティング・カウボーイDrifting Cowboys - Wikipediaの牛追いたちのことだろう。沢野ひとし『東京ラブシック・ブルース』参照

*7:大野義夫ホームページ

*8:他の「マウンテン・ボーイズ」組は新井利昌、多田正幸、斉藤任弘、清水一夫

*9:バンド・メンバーとの対立による離脱とも。

*10:このへんも2011-01-30 - もうれつ先生のもうれつ道場で書いた<社会階層の区分と「ハイ・ブロウ」「ロウ・ブロウ」といった美学的ステイタスは違う>という話に通じていて、初期ウエスタンのミュージシャンは井原忠高や鳥尾敬孝など「上流階級の子弟」によって占められていたけれど、そのウエスタンのステイタスは「ロウ・ブロウ」に位置していたという話になる。もっとも井原はプレスリーの登場を苦々しく思っており、「ミュージック・ライフ」にてデビュー盤を糞味噌に貶している。「ロウアー」なウエスタンからみても、ロカビリーは最底辺の音楽だったわけだ。

*11:「ウエスタン・キャラバン」本体は曲直瀬プロに留まり田代久勝をバンマスに継続、後のシャープ・ファイブやブルー・コメッツのメンバーが参加。相沢芳郎は引退して後年サン・ミュージックを興す電子書籍.club -