曾野綾子の野田聖子批判について――遠慮によって「共有地の悲劇」は回避できるか?

曾野綾子『人間にとって成熟とは何か』第6章・「権利」を使うのは当然と考えない
アメリカで卵子の提供を受け高齢出産した野田聖子の発言に違和感を表明
以下同書より野田聖子批判の当たる部分を引用

「えっ?費用ですか。息子を授かる費用は夫が蓄えてきたものの中から出して、生まれてからの息子の医療費は、医療制度に支えられています。高額医療費は国が助けてくれるので、みなさんも、もしものときは安心してください。国会議員の子どもだから特別ということでは、まったくないのです」
 この部分に関して、恐らくすべての人は黙しているのだろう。何より大切なのは、子供の命の継続だ。それがいま、医師の手で果たされている限り、外部からは何も言うことはない。野田氏は、高額医療は誰に対しても国が与えてくれるもので、決して国会議員の特権ではない、という点にまで触れている。
 しかし私はまずこの点にびっくりしたのだ。今時高額な医療費が国会議員の家族にだけ払われるというような発想をする人がいるかもしれない、と考えることが、私には全くなかったのだが、野田氏の思考の中には、まだこういう旧態依然とした特権階級意識があることに驚いたのだ。しかしこれは恐らく周囲の人に、この手の質問をする人がいたか、いるに違いないという予測のもとに口にされたのだろう。
しかし違和感はそこだけではない。この野田氏の言葉は、重要な点に全く触れていない。それは、自分の息子が、こんな高額医療を、国民の負担において受けさせてもらっていることに対する、一抹の申し訳なさ、か、感謝が全くない点である。
(中略)
 少なくとも、私が度々行っているアフリカの田舎などでは、こういう重度の障害を持つ子供たちは、全く治療を受ける方法がないのである。お金はもちろんない。第一、医師も医療機関もない。国家にそれを援助する資金源も制度もない。
 どうしても、治療を受けたければ、フランス、ドイツ、スイスなどに行って専門医にかかるほかない。しかしそんな費用は夢なのだから、誰もその可能性を考えず、ただ運命に従うのである。そういう病を抱えた子供たちが、充分な医療を受けられるように国民健康保険の制度が作られている日本という国は、世界的に見て「天国」なのだ。その国民である野田夫妻が、これを利用して子供さんを育てることも、誰も憚ることもない当然のことなのである。
 これが表向きの理論だ。
 しかしそれだけでは済まないと私は思う。私自身が、先ず野田氏の言葉に違和感を覚えたのは、野田氏がこのことを、当然の権利の行使と考え、その医療費を負担している国民への配慮が全く欠けていることであった。
 私の周囲には、「どうしてそんな巨額の費用を私たちが負担するんですか」という人もいる。「野田さんの子どもさんがお使いになるのは、ご病気なんですから仕方がありませんけれど、ありがとうの一言もないんですね」と言った人もいた。「もしもの時には安心してください、というのは、遠慮せずにどんどん使えということですか?そういう空気を煽るから、健康保険は破産するんですよ」という意見もあった。
 増税論が終始話題に上るこの時期に、仕方がないとは思いつつ、皆、健康保険料を払うのも大変なのだ。私も後期高齢者医療制度の保険料を年額50万円以上払っているが、私にもできる唯一のこととして、できるだけ医師にかからないようにしている。
(中略)
 話を野田氏の事に戻す。改めてはっきりと付け加えておこう。それはこの真輝ちゃんの治療を止めればいいなどと言う人一人もいないということだ。誰にとっても、出費の心配などせず、子供さんの治療ができることはいいことなのである。
 しかしその背後に、人間性があるかないかで、印象は非常に変わって来る。私だったら「皆さんがお払いになった健康保険料をたくさん使わせていただいて、ほんとうにどんなに申し訳なく、感謝しているかわかりません。この子が大きくなったら、何らかの道で、きっとご恩返しをするように、よく話して行くつもりです」と言うだろう。
 成熟した人間というものは、必ず自分の立場を社会の中で考えるものだ。昔はお互いの立場がもっと曖昧模糊としていた。社会は互助制度である健康保険などという制度も全く知らなかったし、困っている人を助けるのは、マスコミなどというものもいない社会の中で「そのこと」を偶然知る狭い範囲にいる知人だけだった。
 だからすべての援助の元は、個人の惻隠の情だけだった。国家も社会も、長い間、高額のお金を必要とする治療に手を貸そうなどという発想は全くなかった。
 手をさしのべる方も控え目なら、受ける方も充分に遠慮して受けるのが当時の人情であり礼儀だったのだ。それが人間の権利だから、堂々と受けた方がいい、などという言葉も信条もなかったのだ。
 確かに不当な遠慮はいらない。不運や病気は当人の責任ではない場合も多い。生活習慣病は当人の責任だが、多くの感染症や遺伝的に起きる病気は当人のせいではない。
 そのような不平等を越えて、だから生まれてきた以上、生きることが人間の使命である。そして人間は生かされ、同時に他者を生かすことのためにも働くようになる。
 ところが最近では、受けて与えるのが人間だという自覚は全く薄くなった。長い年月、日教組的教育は、「人権とは要求することだ」と教えた。これが人間の精神の荒廃の大きな原因であった。
 しかし少なくとも私は、「人権とは、受けて与えることです」と教えられて育った。
 最近、私の周囲を見回すと、実にもらうことに平気な人が多くなった。「もらえば得じゃない」とか「もらわなきゃ損よ」とか、そういう言葉をよく聞くようになったのである。「介護もどんどん受けたらいいじゃないの。介護保険料を払っているんだから、もらわなきゃ損よ」とはっきり言う。
 受ける介護のランクを決める時には、できるだけ弱弱しく、考えも混乱しているように装った方がいいとか、そういう哀しい知恵だけはどんどん発達する。
(注:「昔の人は教育の程度はずいぶん低かった」旨説明し)しかし清新の浅ましさはなかった。遠慮という言葉で表される自分の分を守る精神があったし、受ければ、感謝やお返しをする気分がまず生まれた。
(注:高齢で障害を持つ子供が生まれた例を出して)言い方は悪いが、夫婦の生活の中でできた子に、こうした欠陥があるのは仕方がない。しかし野田夫婦は、体外受精という非常に計画的なやり方子供を作った。
 その場合は、いささかご自身の責任において、費用の分担をされるのが当然という気もするのだ。法律にそんな項目はないのだから、これは、あくまで意識の問題であり、決して強制するものではない。しかしそれも大変なことだ。とすれば、いよいよご自分たちが受けた処遇に対する感謝が深くなって当然だろう。
 野田氏のように権利を使うことは当然という人ばかりが増えたから、日本の経済は成り立たなくなったのだ。使うのが当たり前、権利だから当然、という人が増えたら、結果として日本社会、日本経済はどうなるのだろう、という全体の見通しには欠けるのである。

 コモンズの悲劇(共有地の悲劇)を指摘しているようでいて、国民健康保険や日本経済が成り立たなくなったのは別に「人権とは、権利とは要求することだ」と多くの人が考えるようになったせいとは言えない(国民の思潮の変化がまったく関連がないとも断定できないかもしれないが、それより別の要因の方が大きい)。この辺の主張は、平成25年の「教育再生実行会議」でも「戦後の日本がそうでございましたように、人権というのは要求することであって、受けるものではある。こちらは与えるものではない。文句は全て政府か誰か学校に言う、そういうことではいけません」と発言しており、曾野の通常運行とも言える(教育再生実行会議での曾野綾子発言抜粋を参照)。曽野綾子は「遠慮」「自分の分を守る精神」などでコモンズを支えようという戦略なのだが――そしてそれはひと昔以上前の保守的文化人の常套戦略であったのだが*1、まぁここまであからさまに「遠慮せよ」「感謝せよ」と書き連ねる浅ましさを回避する深慮があった。自分が批判しているものと同次元の浅ましさに自分も陥ることへの自省があった――「コモンズの悲劇」という法則性が提唱される程度には昔から存在する(普遍的と言っていい)問題であり、心構えのようなものでクリアできるものではない。
 また野田聖子の発言から、彼女が旧態依然な階級意識を持っているかのような解釈をしている。これはすぐに「別の解釈」によって断定を避けられているが、態々こんな回り道を辿って「特権階級意識」を示唆するのは、天然だったら愚かな思考であるし、作為的ならきわめて悪質と言わざるを得ない。

*1:この辺については近日中に更新する獅子文六『七時間半』感想文で取り上げる。