映画『狂った果実』における社会批判

前にツイッターで、石原慎太郎の処女作「灰色の教室」の中で戦争(敗戦)について言及していると思われる記述(≒世代的な屈託)を引用したことがあった。自分が通っている旧式な価値観の高校(湘南高校がモデル)への拒絶感を主人公が吐露したながれに続くもの。

もうれつ先生7月30日19:05
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しかしこんな場合はどうなのだ。彼等が試合の組み合わせで運悪く全く実力の違った相手とぶつかった時、その勝負は見えていても彼等はそれを投げ出しはしまい。たとえそれが子供っぽい意気込みに過ぎぬとしても、やってみなければわからないのだ。そして結果は予期した通りの惨敗であったにせよ、精一杯やったという事実は、ユニホームの汗のしみのように後々まで残るわけだ。井戸だってそうではないか、水が出なくても手で掘った千米の深い穴があると言うことは、水が出たにしろ出ぬにしろ、人間にとって何か大したものではないだろうか。

石原慎太郎は、同世代の他の作家のように直接日本が戦争に負けたことについて屈託をのべることはないが、「戦後民主主義の欺瞞」を非難する時にそれに近いことを言ったりする。
この小説が発表されたのは昭和29(1954)年12月(『一橋文芸(復刊第1号)』)。続く第二作「太陽の季節」が『文学界』の昭和30(1955)年7月号。昭和26(1951)年10月の5全協(第五回全国協議会)からの共産党武装闘争路線が混迷していた頃。石原慎太郎に「農村を根拠地とした武装闘争を発展させ、次第に都市へと浸透させ蜂起をはかる」みたいな中国共産党の理念は水と油だろうし、保守的で単純な立身出世志向を身に着けようにも、廻りがみんな凡庸で貧乏臭く見えてるんだろうから無理な注文であったのではないかと思う。

映画『狂った果実』よりエディットされた動画

石原裕次郎たちにフル凹にされる「T大のレスリングやってる」石原(長門裕之)&長門石原慎太郎)ってキャスティングもいいですが、1:55あたりからのクラブ「Blue Sky」でのやりとり

「何処いっても日本は日本です」
「つまらん国です」
「哀れな青春です」
夏久(裕次郎)「(フランクに)なぁに、この楽隊?」
フランク(岡田真澄)「Stinks!」

こういったくだりは、同時期のユースカルチャーを描いたイギリスのテディ・ボーイ映画と同じように、かなり新しかったんだろう。いや、例えば小津安二郎が『東京暮色』で描いた不良の若者たちの科白と同じような軽口を、『狂った果実』の脚本で石原慎太郎も書いたのだろうけれど、こなれていない拙い演技の裕次郎が「なぁに、この楽隊?」と言うのが、本当は主役である「分かりやすい若者像」の津川雅彦より魅力的な若者に見えてしまったということなんだろう。

1958年(つまり『狂った果実』より2年後のテディ・ボーイ映画『Violent Playground』*1より)

で、『狂った果実』の話に戻ると、瀧島夏久(石原裕次郎)・春次(津川雅彦)兄弟が沢フランク(岡田真澄)のヴィラで太陽族の仲間たちとダベっているシーンがあって、ここで非太陽族の弟・春次にケチをつけられた太陽族の彼らは自分たちのレーゾンデートルを述べている。ユース・カルチャーの真っ只中にいる人間は、そう理性的に己の存在理由を述べたりできないものであったりするので、伝法な口を利きながらもけっこう理屈を言ってるところが、上で言った「敗戦への屈託」と同じようで気になった。

春次「テイジさんたちはアレしかやることがないのかな?」
手塚「何だァ?」
フランク「お前らがヤクザだって言ったのサ。」
相田「ちぇっ、何言ってやがる!ヤンキー・ゴー・ホームだ、こい!」
手塚「要するに、俺たちやぁ退屈ナンですョ」
春次「ならほかにも何かすりゃあいいじゃないかよ」
島「他にって、何ョ?」
夏久「考えてみるとョ、その「他に」ってのが無えんだョ。インテリどもがコウルサク言う思想なんてものは言葉の紙屑みたいなもんサ。そんなものどんなに飾られて綺麗でもョ、結局あの熱帯魚みたいに脆くて頼りないものョ。見ろよ、こうやって泳いではいてもョ、ちょっと水が濁ったり冷えたりすりゃァ、じき死んじまうじゃねえかョ(と水槽にインク瓶の中身を注ぐ。BGMがテーマミュージックに変わる)」
春次「あ」
夏久「昔と違って今の俺たちは、そんな上品な思想に溺れてられるかってんだョ。話すにしても考えるにしても、もっと別にピリッとした言葉が欲しいじゃないかョ」
島「学校の教授どもが喋ってることきいてみろよ。千日一様。昔はあれで通ったかもしれないが、今じゃ時代錯誤の世迷言じゃねえか」
手塚「経済原論の立川な、あいつこの前の時間に「諸君は将来のキャプテン・オブ・インダストリー」とかぬかしやがンの。サイレント映画の解説じゃあるめえし、隣にソ連中共のいる今どきにョ、よくもまぁ見果てぬ夢を追ってられるもんだよなァ」
島「ああゆう奴らが日本の代表的な学者や思想家で通ってるんだゼ」
夏久「こんな俺たちにそっくり受け渡そうとするモノの考え方とか感じ方を見てみろョ、俺たちにピンとくるものが一つでもあるか?」
島「お手上げだね、まったく。俺たちは俺たちのやり方で生きてくョ。」
春次「じゃあ今のそれがそうだってのかい?ただダラダラ生きてるだけじゃないか」
夏久「ダラダラだと?これでも精一杯なんだぞ」
春次「結局兄貴たちのやってることはただのデタラメだよ。自分で自分のやろうとしていることが最初からよく分かってないンじゃないかョ。だからヤクザだって言うんだ。兄貴たちみたいのを太陽族っていうんだ。僕はそんなのイヤだ。」
夏久「それじゃあ他に何すりゃァいいンだ?」
春次「何って…」
夏久「俺たちが何かこう思い切ったことをしたくてもョ、正面切ってぶつかる何が何処にあるンだョ。」
道子「要するに退屈なのよ、現代ってのは」
夏久「そうだよ、そうなんだョ。その退屈が俺たちの思想ってもんサ。今にその中から何かが生まれてくるんだろう」
道子「そうョ、そうなのョ。(BGMカットアウト)お腹空かない?飯にしよ」*2

「退屈」がキーワードなのは2歳下の裕次郎の世代を当て込んだもので、「隣にソ連中共がいる今どきにキャプテン・オブ・インダストリーもないだろう」と考える作者・慎太郎の考えがそれと混合してここでの「太陽族」のレーゾンデートルとなっているんだろうね。
まぁ戦後民主主義というか、当時の学生運動や社会運動に対する批判ともとれる。このへんは、柴田翔石原慎太郎より4歳下)や高橋和巳(石原とタメだが、60年安保以後活躍した)らを参照したほうがいいのかもしれないが、未見です。。。

*1:以前トンデモない一行知識さんとのやりとりで「リヴァプールはローカルな都市だからテディ・ボーイなんて最先端はいなかったよ」みたいなことを自慢げに言ってましたが、この映画の舞台はリヴァプールでした。半可通でスミマセンです。

*2:太陽族の仲間「相田」「手塚」「島」の特定は間違ってるかもしれません。