「福島第一の事故責任は国民が取るべき」「民主主義において、最終的にはすべての国民に責任がある」という考え方について

季刊誌「躍」2013年December号 鼎談・基軸を探る「日本の技術力とエネルギーを考える」

左より大場恭子、山口彰、原丈人

季刊誌「躍」は関西電力が発行する季刊誌。三人の肩書は
原丈人経済財政諮問会議 専門調査会会長代理
山口彰:大阪大学大学院教授
大場恭子:東京工業大学特任准教授

鼎談への反応(クリエネさん、くろぴよさん、牧野さん)

クリエネさんのツイート

くろぴよさんのツイート

牧野さんのツイート
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アクロバティックな論理展開なのでついていくのが難しいが、山口彰さんの論旨は「福島第一の事故責任は国民が取るべき。アメリカ人は、金持ちになりたいとか、有名になりたいとか、目標設定をするからリスクも取る。対して、日本人は目標設定が下手で、平穏無事であること・事故を起こさないことを目指すので、リスクを取ろうとしない。それが汚染水の処理対策などでの失策を招いている」といったことではないかと思う。まぁ、被害を蒙るのは確実に「国民」なので、ここで指摘されている「リスクを取りにいけない」「リスクを取る理由がない」という文脈が実はよく読み取れないのだが。
山口さんは米日の文化を対比させ目標設定の優劣にリスク評価・リスク管理の根拠を求めているが、アメリカ人だって平穏無事であること・事故を起こさないことを願っているだろうし、日本人のほうだって、理屈以前の感情論的なところで反原発・反被曝になってる人もいれば、目標設定をしてリスクを勘案した末に反原発・反被曝を選択している人もいる。反対に、感情論的に反反原発・反反被曝な人もいれば、損得勘定の結果そうなった人もいる。であるので、論点を「目標設定(の稚拙さ)」に求める山口さんは間違っているのではないか?ということになる。
参考まとめ
大場恭子さんってどんな人? (おまけ付)



ちなみに私の反応はこんなカンジ…

もうれつ先生のツイート



岡田斗司夫『遺言』
そういえば、「民主主義においては、最終的にはすべての国民に責任がある」という岡田さんの発言があったな。

 実は民主主義というシステムは、責任者がつくれないんですよ。もし民主主義の中で悪いことが起こったら、選挙でえらばれた人間のせいです。つまり民主主義における悪は、最終的にはすべて国民に責任があることになります。
 よく「政治家は責任を取れ」と言いますが、それはおかしな話です。民主主義では、責任を取るのは有権者です。政治家に「責任をとる権利」は与えられていません。ダメな政治家は次の選挙で落選するだけです。
 だから国民主権なんです。
 国民が政治家を選ぶ。選びそこなったら、その被害は国民が受ける。そして、新たに政治家を選びなおす。それが国民の権利であり、責任です。
 政治家の範囲は、国民からクビにされるところまでで完結します。政治家にそれ以上の責任を取らせようとすることは、国民主権に反しているんです。このように、民主主義というのは言い訳を許さないシステムなのです。
 これは僕オリジナルの表現ですが、民主主義の捉え方として間違っていないと思います。
 民主主義以前は、「お上のやることはわかんねぇ」と下々のものは文句も言えたし、愚痴も言えました。そうやってあきらめるしか道がなかったので、責任をとる必要がなかったわけです。

これは原発事故(現在の文化水準を保つためのリスク管理の問題)ではなく選挙(政治の問題)ではあるが。
国家は唯一絶対な権力であり、権力が暴走することを抑制するため政治家に重い責務や制限を負わせている。岡田さんは、民主主義以前は「国民」(下々のもの?)は責任をとる必要がなかったと言っているが、「失政が国民の生活に跳ね返ってくる」のは何も民主主義だけに限らずどんな社会体制であってもそうで、そういう実態から考えられたシステムが民主主義。最終的にババ引くのは国民なので、主権を他者に預けるより国民が持つものとした方が国家体制として強固であるというもの。