「遍歴楽師」音松劉円

二、三日風のつよい日が続いていたのが、今朝になってようやく凪いだ。
外套を着ると、徒歩でも汗ばむ。夕刻の冷え込みを考え、それより衣替えの支度が億劫なので、海岸電車を使って出かけることにした。

カタコトと停車した車両に入り、毛羽立った緑色の座席に座ったところでさっそく不機嫌になった。窓からの春の日差しは思いのほか暖かく、シートの暖房を切っていないので、臀部の辺りからムシムシ発汗しだした。これはいけない、こちらにはこちらの段取りがある。そちらの都合で段取りが壊れるようなことならば、はじめからこんな交通手段は選択しない。
頭の中で鉄道に故障を立てていると、車両は大きくカーブし海岸線にはいった。
すると車内の雰囲気が急に変わり、それと同時にこちらの気分もまた変化した。乗客は遠出からきた者がおおく、妙に華やかで明るい。人間というものはおおきなものに出くわすと心浮き立つものだ、とひとりごちたところで、言っている本人のへの字口が緩んでしまった。
次の停車場でオットセイのような老人がのっそり入ってくると、大きな頭を左右に振り回し、座席のひとりを見つけると親しげな挨拶をした。座席の人間も海獣くずれかとよくみると、それはごくふつうの地元民であった。オットセイはその隣に腰を下ろし会話を続けた。
「今日は?」
「いや、これでね」と、大老人は持っていたケースを示す。
クラリネット?」
「いや、トロンボーン
オットセイ氏の声は、とくに大声では話していないのに、たいへん特徴がある。どうやら吹奏楽者らしいのだが、喋るのもたいへんなバリトンで、腹から喉を伝って頭に共鳴するチューバの低音域が、狭い車内に振動となって響き渡った。
オットセイ氏と地元民氏の会話は、揺れる車両に合わせた調子で間があく。声に魅せられた私は、もっと耳を楽しみたくなり、オットセイ氏の発言を心待ちにした。よく聴いているうち、言葉の特にb音、バ行のときその低音の真髄を発揮することを発見した。
そのとき、急に圧迫感を感じ、次に目の前を赤いものが通り過ぎた。驚いてすこし仰け反ると、外が一瞬に暗くなり列車は冷たいトンネルに入った。
トンネルを出ると圧迫感は消え去り、ふたたびチューバの響きに身を委ねた。臀部はもうだいぶ温まって、心持ちうつらうつらしながら海を眺めているうちに、なんだかオットセイ氏の声がぼやけた滑舌になってきて、ほんとうの喇叭のような響きに変わり、やがてオットセイの鳴き声のようなものにへんなものに歪んでいった。
気持ちがわるいのでそちらを眺めると、オットセイ氏の頭がだんだん膨らんで朝顔の形状になり、その頭の上から音が発せられているようであった。
するとふたたび、赤いものが圧迫感と一緒にやってくるのがわかった。
目にするのが恐ろしくなって、下を向いて知らんぷりをしていると、目の前に細い腕が突き出された。なにかを握ったその爪は、毒々しい真っ赤なマニキュアが乱暴に施され、しかも剥げかかっていた。そのうえ爪切りを使っている形跡は伺えず、先は歯形によってギザギザに千切られていた。私は獰猛な獣に襲われたかのようにおののき、女の顔を見た。女は、目が合うと握っていた手を広げたが、一言も口を利かない。
手の中にあったのは百円硬貨であった。固まってしまった私は、手の中で汗だらけに光った銀貨をどうすることもできない。
しばらくその状態はつづき、銀貨は私の傍らの空席に置かれた。赤い少女はそのまま隣の車両に消えてしまい、硬貨だけが残された。
その銀色を暫く眺めて圧迫感を鎮め、ふと注意をオットセイ氏のほうに向けると、オットセイ氏も地元民氏も消え去ってた。私は、近頃の楽師はずいぶん剣呑な曲で人を釣るものだ、とすこし憤慨したが、恐怖感はだいぶ収まっていた。