昨日のTBSラジオ「アクセス」

宮崎哲弥氏の担当日で、テーマは「かの人」*1の死刑に是々非々云々。
それはまぁどうでもいいのですが(よくないか・・・)、先日「ドキュメンタリーは嘘をつく」で話題にした森達也氏がゲスト出演していた。大勢は「死刑」肯定に傾いているなか、一般聴取者も交えてのトークでは、自分でも言及していたけれど、感情的な発言となってしまい、議論としてはお粗末なものになっていた。最後に「宮崎さんは(議論の進行が)上手いなぁ・・・」と締めくくられると、つくづくこの人、微温的・低回的な自分にこだわっているんだなぁ、と思った。
というと貶してるみたいだけれど、ラジオでだけ判断されれば、宮崎氏はクレバーな大人で、森氏は大人になれない左翼病患者に見られてしまうのは、想像に難くない。
でも、クレバーな宮崎氏にはドキュメンタリーを作る才能はないだろう。
たいがい、批評家・評論家は、提示された問題についてひと通りの結論を持つ。もちろん、結論を持つといっても、それを明示するか、暗喩的に記すか、読者に謎として投げかけたままに終えるかは、各人の志向によって様々だろう。しかし、評論家としての確固たる結論を持ちながら、他者と意見を述べあえるということは、本人の思考が安定している状態にあるといって良い。人は、うっかりその批評家の中に、自分の持っているカードとは別の、揺ぎない真理があると錯覚してしまいがちだ。平たく言って、「偉い人には頭を垂れる」ということだ。そして、この自己放棄の行為を最も嫌うのが森達也氏(及びドキュメンタリー作家たち)ではあろう。
だいたい確固たる結論を持つ思考回路は、往々にして静的なもので、あんまり映像向きじゃない。物書きがたとえメディアに露出しても、その書いたものには不在証明が付き纏う。どっちが優れているということではなく、これは作法の違いなのだろう。
まあそんなことはどうでもいいけど、こないだ言い忘れてたが、「ドキュメンタリーは嘘をつく」ラストで<OKですか?/OK・・・>ときて、かなりグッと目頭が熱くなってしまった。作っているのは承知してたのが、口惜しいけれど。
森達也村上賢司松江哲明も替山茂樹も大嘘ツキだとおもいます。

*1:麻原被告