<唐沢俊一検証blog>『ハナの首飾り。』その後あれこれ

http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/
ここの2009-06-03のエントリ『ハナの首飾り。』をベースにした拾遺録。
http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/20090603/1244026835

基本的には自分のためのメモなので、批判文と間違えないように。

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今は、ブルー・コメッツの結成は1957年9月という説明で確定しているようだ。かつては1959年のジーン・ヴィンセント来日巡演の際にバック・バンドとして選ばれたあたりから語られだし、同年解散後鹿内タカシによる再編ブルー・コメッツが正式なスタートといった表現だった。'57年のころは、Wikipediaにしたがえば「大橋道二、ロジェ滋野ら米軍キャンプ回りのバンドマンを中心に結成された。専属シンガーを付け、渋谷のジャズ喫茶を中心に活動した」とされ、別の資料によると「'57年9月にロカビリー歌手の竹田きみひこのバック・バンドとして結成されたのが母体である。演奏テクニックは海外でも評判で、ワンダー・ジャクソン、ジーン・ヴィンセントといった外タレの国内公演のバック・バンドを務めた。」(http://plaza.rakuten.co.jp/tmatsumoto/diary/200906240000/)とある。「竹田きみひこ」は竹田公彦、「フジヤマ・ママ」のワンダ・ジャクソン来日はジーン・ヴィンセントと同じ’59年。
ブルー・コメッツがGS史上重要になるのは
1.1966年3月に英語版「青い瞳」をリリースしており、2ヶ月遅れのスパイダース「フリフリ」に先んじてGS第一号とも目されている(ただし洋版扱いの発売形式を含め異論は多いが)
2.尾藤イサオのバック・バンドだった時期、尾藤のシングル「ワーク・ソング」(1966年)での三原綱木のギターが日本のファズ・ギター第一号とされる(カップスのエディやかまやつなどはそれ以前に入手していたが、録音には使っていない。というかかまやつ談だと、かまやつが海外から持ってきたギブソン社のファズ(「ファズ・トーン」か)を三原綱木が拝借し尾藤曲で使用したということだ。なおかつ三原は電気に詳しかったので、ローランド(当時の会社はエーストーン)の創始者梯郁太郎のところに持っていってコピー(おそらく「ファズ・マスター」)を作り日本初のファズとして売り出したとか(http://www.geocities.jp/fuzzzboxxx808/a.ace.contents.html)。あと尾藤との関係は、「専属歌手」「ゲスト歌手」「バンドの一員」といろいろ表現されているが、ドリフターズ仲本工事の件にからめてこの時期の「歌手・バンド」関係は書く予定)
3.エドサリヴァン・ショーに出演した唯一のGS
黒沢進のGS研究浸透後は2と、(ジャズ的嗜好のあった)英国のモッズ・バンド的解釈で捉えなおす傾向が強かった。それと「さよならのあとで」で歌謡曲路線にシフトしたGS界の「戦犯」的な見方も大きい。以上が前段。

【「北国の二人」実質GS最初のオリコン1位説】
『ハナの首飾り。』09-06-07コメント 割也さん

オリコンは正式にチャート集計を開始する以前に、実験的にチャートを制作しており、
そちらではジャッキー吉川とブルー・コメッツの『北国の二人』が1位を記録しています。
従って厳密には『花の首飾り』は「GSの曲として初めてオリコンのベスト1」とはいえないことになります。

とあり、これによって本文に修正が入った。詳しくいうと、

1967年11月2日付(1967年5月頃という説もある)から実験的にチャート制作された。正式スタートは1968年1月4日付から。シングルチャート第1回の1位は、黒沢明ロス・プリモスの『ラブユー東京』(ただしそれ以前にジャッキー吉川とブルー・コメッツの『北国の二人』が実験的なチャートで2週連続1位を記録しており、「幻の1位」と呼ばれる)

とのこと。「オリコンWikipediaより(11月2日〜9日の実験的チャート開始当初での2週連続1位だという。発売は9月15日、すなわち2ヶ月のインターバルがある。)

「北国の二人」には「最高位7位 発売枚数8万3千枚」というデータもあり( http://www.pp.iij4u.or.jp/~marukazu/homepage/hit.htmや故黒沢進作成のGS資料ほか多数)、これはオリコンの正式開始1968年1月4日シングル・チャートのデータを指していると思われる。この日の1位は黒沢明ロス・プリモスの「ラブユー東京」(発売はなんと’66年4月)、2位は相良直美「世界は二人のために」('67年5月)、もっとも新しい曲が67年12月20日リリースの寺内タケシとバニーズ「太陽野郎」(16位)。またブルー・コメッツは「ブルー・シャトウ」(14位)でもランク・インしている。
「北国の二人」が「8万3千枚」というと、「思いのほかマイナー・ヒットだった」とか「当時のレコード産業の規模としてはこんなもの?」といった感想が出てきそうだが、じつは「8万3千枚」という数字は資料データとしては使いにくい。「8万3千枚」というのは全売り上げだか出荷だかの枚数ではなく、1月4日付からのランク圏外にいたるまでの通算枚数だと考えられ、それはたとえば、1月4日〜18日3週連続1位の「ラブユー東京」の解説に「オリコンでのセールスでは30万枚そこそこだが、実際はその前にかなりヒットしていたとされている。」とあるのでも、その「ラブユー東京」を蹴落としたフォークル「帰ってきたヨッバライ」(2月22日まで5週連続1位)が280万枚以上の売り上げであったことを考えれば、リサーチ開始当時の出っ張り引っ込みがランキングに及ぼした影響を見るべきだろう。具体的に言えば「8万3千枚以上」のヒットだった可能性があり、なおかつその「8万3千枚以上」が同時期ロング・セラー「ラブユー東京」「30万枚以上」やお化けヒット「帰ってきたヨッパライ」「280万枚以上」などとは已然比較しずらいものであるということである。「帰ってきたヨッパライ」はアングラ、ハレンチ、昭和元禄等当時の風俗を象徴する曲、「ラブユー東京」はムード歌謡の典型として後々まで歌謡界に影響を残したのだが、では「北国の二人」は?というか、ブルー・コメッツそのものは?などという疑問はブルー・コメッツにたいしてたいへん失礼なのは重々承知しているのだが、いまブルー・コメッツを語るのがむつかしいのは間違いないだろう。

横道1.
このころのチャート・アクションは3週遅れくらいで数字に現れてくるようだ。「帰ってきたヨッパライ」発売が1967年12月25日、噂が噂を呼びこの日すでに入手困難な状態であった(小林信彦『1960年代日記』ほか)が、オリコン1位になったのは翌年1月23日。唐沢俊一のいう<GSの曲として初めてオリコンのベスト1>の「花の首飾り」は68年3月25日発売、チャート1位は4月15日(30位→3位→1位という流れ)。
横道2.倍速ピッチ・ヴォーカルの先駆
「帰ってきたヨッパライ」大ヒットで1968年はアングラ・サイケの百花繚乱、ヒットにあやかろうとテープ・スピードを速めたヴォーカルのアングラ・シングルが連発された。そのなかでも「ケメ子の唄」(ダーツ盤とジャイアンツ盤がある)はヒットした部類。『アングラ・カーニヴァル』参照のこと(“ペッタラ・ペタラコ”水木しげる先生直伝(?)のコーラス付松平ケメ子「私がケメ子よ」など聴きどころ多数)。しかし、倍速ピッチ・ヴォーカルは「ヨッパライ」が初めではなく、67年夏の木の実ナナ「ミニミニ・ロック」およびそのオリジナル、ドイツのGoosies「Mini-mini Rock」が先駆となるようだ。
http://www.youtube.com/watch?v=ANJ-ZMk2TTA
私がケメ子よ / 松平ケメ子(話はどんどん横道にそれるけれど、この1968年当時すでに「熱い目線に囲まれて」と歌われてますね。そうとう早いのでは?)
横道3.1968年・年間チャート1位の曲
は「帰ってきたヨッパライ」でも「ラブユー東京」でもなく千昌夫「星影のワルツ」。同曲のリリースも「ラブユー東京」と同じ1966年。チャート1位期間は「ヨッパライ」と同じ5週連続(6月3日〜7月1日)。もともとはB面「君ひとり」がA面だった。売り上げは170万枚だとか250万枚だとか書かれているが、「ヨッパライ」の数字と整合性が取れず、「ヨッパライ」の数字が蒸かしているのか「ワルツ」の数字がいい加減なのか当時のオリコンがこの程度のシロモノだったのかいずれかであろう。(参照http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E5%BD%B1%E3%81%AE%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%84、またhttp://plaza.rakuten.co.jp/yellowbird1966/diary/200803150000/

【ブルー・コメッツ「北国の二人」が<GS史上初のオリコン1位>と看做されにくい理由】
http://www.pp.iij4u.or.jp/~marukazu/homepage/index.shtml
http://60spunk.m78.com/jpmenu.htm
このあたりを見るまでもないけれど、GSに求められているものは基本的に非歌謡曲的音楽なので、その点ではほかのGSに比べ歌謡性が高かったブルー・コメッツの評価は低かった。コメッツ・フォロワーなブルー・シャルム(馬飼野康二在籍)やハイロウズブルーハーツとは無縁で体脂肪率大なほう)と比較して洋楽的演奏力は格段にあったのだが、それが手馴れた職人技で終わってしまったのがガレージ系に受けない原因だった。米国ガレージ系で極端に受けの良いモップスやバニーズはもちろん、テンプターズやボルテイジ、アウトキャストなど後年評価が大幅に上がったバンドは、どれもむやみなチャレンジ精神が引き起こす稚拙さを追求して、その稚拙さが脱歌謡的な魅力となっていた。
あ、こう書いてしまうと、唐沢俊一がよく振り回す<稚拙であるがゆえに優れている>論と同質な話になってしまうのか。それはイヤだなあ。<稚拙であるがゆえに優れている>と<稚拙であることが、結果として優れていることにつながる>とは文脈が違う、と言ってお茶を濁そう・・・。
そんなブルー・コメッツの楽曲のなかで、「北国の二人」はかなり洋楽的ではある。近田春夫がブルー・コメッツを語るとき決まって<三原綱木のギターがジャズっぽいビブラートでけっしてチョーキングしない>等バンドの非GS度を強調するのだが、そのへんも(ワリと)クリアーしている。微妙な差だが「ブルー・シャトー」よりもロックっぽい演奏なのでは?ただ歌のメロディがものすごく和風で、「ブルー・シャトー」路線の完成型ゆえにリアル・タイムでは抜きん出てポピュラリティがあったけれども現在からみると地味すぎる、といえばいいのかなあ・・・。
まとめると、
1.リアルタイムでGSに接した世代でも、洋楽志向性を求めた層にはブルー・コメッツのプロっぽさ・ジャズっぽさは魅力ないものに映った。しかも「さよならのあとで」以降の歌謡曲路線が「戦犯」と目された。(1986年刊・黒沢進『熱狂!GS図鑑』だと、このころは黒沢氏もピュアだったせいか、「さよならのあとで」以後のディスコグラフィはGSと認めず記載していない。)
2.ネオGSブームやガレージ・サウンドとしての再評価など後年の捉えなおしの時期となっても着目されなかった。厳密にいうと『The Tales Of Blue Comets』が出た2000年あたりでそういった動きはあったのだが、結局継承するものがないので「ひとつの解釈」的なもので終わってしまった。クレイジー・ケン・バンドの横山剣などがブルコメ的なニュアンスを吸収していたら、また状況は違っていたのかもしれないが。
こういった温度差が、<試験期間だった云々>という理由だけでなく、「北国の二人」をGS初オリコン第1位とするのに躊躇させている要因だろうと思われる。雑学的に「北国の二人」1位は正しいとは思うけれど、GSファンとしては穏当にタイガース「銀河のロマンス/花の首飾り」としておきたいところではないでしょうか?


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もっと(他人にとっては)重要なことを忘れていた。唐沢俊一の記述の誤り。『昭和ニッポン怪人伝』第7章「クレージーキャッツザ・タイガース

タイガース最大のヒット『花の首飾り』(加橋がメインで歌った曲で、GSの曲として初めてオリコンのベスト1になり、その座を7週にわたってキープし続けた)を歌っているにもかかわらず

「花の首飾り」は、ヒットしてから両A面扱い、もしくは「花の首飾り」A面扱いで(オリコンの資料などでは)記載されていくが、当初からA面は「銀河のロマンス」であり「花の首飾り」はB面曲。ジャケット及びラベル変更は一度もなかったので、正確には<「銀河のロマンス」(もしくは両A面扱いと考え「銀河のロマンス/花の首飾り」)が1位になった>と言うべきだろう。スウィング・ウエストの「雨のバラード」のケースとはちがうのだ。(参照・いつのまにかA面になった「花の首飾り」http://thetigers.livedoor.biz/archives/50201731.html)〔注・スウィング・ウエスト6枚目のシングル「幻の乙女」はB面「雨のバラード」の人気でじわじわ売れ続け、途中から両A面扱いのジャケットに代わった。なおWikipedia湯原昌幸の説明で同曲をスウィング・ウエスト時代から歌っていた旨記されているが、「歌っていた」のは間違いないが、リード・ヴォーカルは作曲者のギター植田嘉靖であり湯原はパート・タイム・コーラスだった。〕〔再追記:シングル「銀河のロマンス/花の首飾り」のデータは「えとせとらレコード」の(http://www.etcrec.co.jp/tigers/romance.htm)が詳細。〕
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前に『人生のセイム・スケール』を見ていてびっくりしたのだが、忌野清志郎が亡くなったのが58歳で、同じ年齢で亡くなった音楽家ジョージ・ハリスン井上大輔(忠夫)がいた(漫画家青木雄二滝田ゆうというのもスゴイのだが)。忌野が現役で亡くなった印象が強いが、そういったことに加え井上大輔が若くして成功をおさめ歌謡界のシステムに乗れたことも大きい。もちろんこれは井上大輔個人のことであり、ブルコメをこの話とリンクさせる不適切はあるのだが。(http://art-random.main.jp/samescale/058.html

スウィング・ウエスト「雨のバラード」と倍速ピッチ・ヴォーカルの件など追記しました〕

熱狂! GS(グループサウンズ)図鑑

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THE TALES OF BLUE COMETS/PAST MASTERS 1965-1972

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世界はボクらを待っている

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ハレンチ

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雨のバラード/ザ・スウィング・ウエスト・オン・ステージ(紙ジャケット仕様)

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アングラ・カーニバル

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