『尾崎翠集成(上)』−贋作「杉粉嬢」

さて、宵闇がようやく訪れ、南風の湿った空気辺りを包む頃、黄色っぽいぼやけた灯りに誘導された小さな虫のように、私たちの主人公は幾日ぶりかの外出を始めた。天上にはまさに暮れかからんとする蒼紺の薄明かりのなか、銀色が風に瞬く星がふたつ、置き忘れたちいさな雲ととも深呼吸していた。
ところでどうしたものか、近頃の流行に習い、どうやら私たちの主人公も、春先の杉の恋愛に悩まされているようである。

尾崎翠集成〈上〉 (ちくま文庫)

尾崎翠集成〈上〉 (ちくま文庫)


但し、他の杉粉恋愛拒絶症者たちが杉粉を即物論的に厭うのに比べ、私たちの主人公はいささか杉粉たちの片恋に同化する傾向があるようだ。
たとえば、目頭が熱ぼったくなるのにも、頭が懶げに重くなるのにも、黄色い粉っぽい分裂感情が伴っているのがその症例といえよう。分裂心理学者ならば、杉粉嬢の片恋が花粉と融合することで反自然的な化学反応を惹き起こし、鼻腔粘膜にツーンと刺激反応を齎す、新種の変態的アレルギヒと診立てるところであろう。
医者を厭う杉粉嬢は、専らこの片恋の自己処方として、杉花粉によく似た人工のパゥダァを常用しているが、その副作用のせいかより一層の懶げな日々を余儀なくされている。
夕時の強い南風に吹かれながら、縮れた髪をよりいっそう縮れさせ、杉粉嬢は歩行を続ける。
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いっぽう東屋に逗留中の芥川氏は、同じ処方の薬物を濫用した結果、<ナイフ*1にしようか、結晶体にしようか、瓦斯にしようか、うんと頑固な麻縄にしようか>、そんなことをぼんやり考えながら、窓にもたれて煙草を吹かして無為な日々をすごしていたのだが、2,3日前より蜃気楼についての試作に取り組もうとしてた。
(この項つづく、か?)

*1:『地下室アントンの一夜』