岡田斗司夫『フロン』の「しょうもなさ」の根拠/唐沢俊一の山下敬二郎追悼にケチをつける

『フロン』 Part.2<「結婚」の危機>―熟年夫婦の離婚は当然の結果

 『サンケイリビング』という家庭新聞のアンケートでおもしろい結果が出ています。「夫の定年退職後、夫婦でどんな時間を過ごしたいですか?」という質問に関して、男性は「女房と一緒にのんびり過ごしたい」が圧倒的に多く、女性は「夫ともっとコミュニケーションをとりたい」という回答が圧倒的に多いのです。
 これを見てしみじみ、熟年離婚は当たり前なんだなあ、と思ってしまいました。
 引退してふたりきりになったら、夫は家で趣味を中心にのんびり余生を過ごしたいのです。妻とコミュニケーションをとりたいわけではありません。急に妻からいろいろとコミュニケーションを求められても、夫はうっとうしく感じるだけでしょう。
 では、なぜ妻にいてほしいのか。自分の身の回りの世話をしてほしいからです。


 が、妻にとっては夫とのコミュニケーションこそが一番待ち望んでいることです。
 ようやっと妻や母といった役割を終え、ひとりの人間に戻れる。子育ても立派にやり終え、主婦としてだけでなく人間的にも成長した自分を、ちゃんと見てほしい。いままで、仕事仕事で話せなかった夫と、もう一度恋人時代のようにふたりで語り合いたい。ゆっくり話したり、旅行に出かけたりしたい。
 ところが、夫はそんなつもりはまったくありません。日がな一日、ごろごろ家にいるだけです。話しかけても、めんどうがって、相手にしてくれません。
 夫が一日中家にいるのは、妻にとっては単に仕事が増えるだけで嬉しいはずはありません。昼食も作らなければならない。掃除も好きなときにできない、外出もままならないでは、うんざりです。

 アンケート結果が、男性のトップが「女房と一緒にのんびり過ごしたい」で女性が「夫ともっとコミュニケーションをとりたい」であるなら、男女とも相手とのコミュニケーションを大事にしたい旨一致していると通常は解釈するだろう。岡田の解釈は、定年後の男性は女房との対等な接触を拒絶するものとしているけれど、「女房と一緒に……」と言っているのだからコミュニケーションをとるにやぶさかでないと考えるのが自然だ。さらに実情に沿って考えても、定年後会社関連の人間関係だけだった夫が孤立し、その間独自に社会参加をして地域的つながりの強い妻に寄りかかる、といったような岡田の想定とは反対のケースも多い。また、定年後<仕事仕事で話せなかった夫と、もう一度恋人時代のようにふたりで語り合い>なんて、いまさら甘ったるいことなど考えないというタイプもいるし、岡田が危惧するような定年を契機とした変化もなく、一貫して非常に仲が良い夫婦というのも存在する。もちろんそういった「岡田の想定外のケースも存在する」といったことがこの問題のメインじゃなく、あくまでも岡田がアンケート結果を自説に都合いいように解釈していて、それがメチャクチャ下手なのが問題なんだけど。

  • 「日本のロカビリー」拾遺

2010-06-12 - もうれつ先生のもうれつ道場の続きみたいなもの。
 唐沢俊一山下敬二郎を追悼している。
 およそ80行の追悼文の前半40行が父親・柳家金語楼のエピソードで埋まっていて、これじゃあ金語楼追悼じゃないか?と思う。しかもその山下敬二郎、'58年2月の<(第一回)日劇ウェスタン・カーニバルのスターとして売り出>しからわずか12行目で<ロカビリーブームはあっという間に過ぎ去り(中略)『ダイアナ』と一緒にフェード・アウト>。その12行の内容も特に山下の活動についての記述ではなく、『ダイアナ』が<年上の女性を追い求める、反逆の歌>だの、<父親の世代に反抗してあがく敬二郎に、当時の若者は共感を抱いたに違いあるまい>だの、山下をネタに陳腐な社会学的な分析のマネをした駄文*1サンダーバード欲しさにナベプロからマナセプロ東洋企画*2に独断で移籍し、それでケチがついて―ということは、もちろんナベプロからの横槍が無いワケがないのだけれど―落ち目となる、そういう美味しいエピソードはスルー。
 レコード業界では恵まれたキャリアを積めなかったけれど、'80年前後ミュージック・テープ全盛期には山下の安価なオリジナル・ロカビリー・カセットが大量に出回っていた。たぶん、日本のポップスのレトロスペクティブなブーム以前は、ロカビリアンとしてはミッキー・カーチスや平尾昌章より山下敬二郎のほうが聴かれていたのではないだろうか*3

ついでに【古い映画を】盗作屋・唐沢俊一167【見る目無し】のコメントにも違和感あり。

>22
>ロカビリーが反抗的な音楽ってw
>もともとカントリー&ウエスタンにビートが加わったモノだし
>実際に当時の曲を聞くと、凄く健全。
>リーゼント&ギターで不良ってのは、かなり脚色された当時の印象だよ。

「健全」ってことを強調したいみたいだけれど、当時の世相からみてロカビリーはじゅうぶん不健全。『ダイアナ』が反逆の歌っていうのは言語道断だけれども、「リーゼント&ギターで不良」が脚色されたイメージというのもどうかと思う。本人たちはイノセントだっただろうが、当時の常識としては不良以外の何ものでもないでしょ?

(引用者注:第1回日劇エスタン・カーニバルの)歌手が激しく動き回ってうたう舞台には、
興奮したファンが殺到し、紙テープやトイレット・ペーパーやパンティやハンドバッグ
を投げつけました。その様子はマスコミの報道で増幅され、翌月コマ劇場での同様な
ショーの模様がテレビで放送されると、大人からの批判が噴出して、以後2年間ロカビリー
がテレビから締め出されたほどです。〔『にほんのうた―戦後歌謡曲史』北中正和


出だしに間があって、スクラッチ・ノイズ(?)の後に曲が始まる。
「オ〜ォ〜、イッツ、ロック、ロック……(oh,it's rock'n'roll tonightか?)」のリフレイン部、Rの巻き舌が「これもまた日本のロック」の証明。

フロン―結婚生活・19の絶対法則 (幻冬舎文庫 お 26-1)

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「敬ちゃんのロック」+「涙の紅バラ」

「敬ちゃんのロック」+「涙の紅バラ」

にほんのうた―戦後歌謡曲史 (新潮文庫)

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*1:分析の仕方が陳腐なのではなく、大衆芸能を社会学的に分析するアプローチが陳腐だという意味

*2:マナセプロは間違い。山下敬二郎は「曲名瀬プロ」→「ナベプロ」→「東洋企画」と渡り歩いた。東洋企画は「スイング・ウエスト」の堀威夫が銀座ACB社長の谷富次郎の名義を借りて興した音楽事務所だったが谷富次郎に乗っ取られ(堀サイドの見方)、マネージメントの実績のない谷の誘いに山下が乗ってしまった。

*3:ミッキーも「ミッキーカーチス&ポーカーフェイス」で70年代ロカビリーを窮めているか……