岡田・唐沢・中谷・秋元、みなさんは何の括りですか?

「せぇ〜のっ、ボクたちは<まるっきりの大衆向け評論家>で〜す」ということでオタトーーク

  • 『「世界征服」は可能か?』を読む〔第2回目〕

前のエントリで書いたように、tenntekeさんによる2010-10-16 - 唐沢俊一検証blogへのコメントは

あと岡田さんは「「世界征服」は可能か?」(2007年)で、
「もう階級なんてない、あるのは階層だ」って書いている

というものでしたが、『「世界征服」は可能か?』原本にあたって調べると以下の通りです。

 世界を支配したとします。もっと規模を小さく考えて、ビジネスで大成功したでもかまいません。その瞬間、あなたは「特権階級」です。
 ところが、現代の世界の中で「特権階級」というのは「うまみ」が少ない。すなわち苦労してまでなっても、あんまりありがたみがありません。
  身分の格差を階級と言い、経済の格差を階層と言います。
 現在の日本には「階層」は存在しますが、「階級」は存在しません。
 経済格差は存在しても、身分の差は存在しないのです。(太字強調は引用者による)

岡田斗司夫はこの本の中で「階層社会」である現在の日本に否定的な書き方をしています。だからこそ、腐った現代社会を征服して構造変革を目指す、といったこの本の基本スタンスとなるのでしょう。では岡田は「階層社会」を打倒して以前の「階級社会」に戻ることを提唱しているかというと、そうでもないようです。
この本で岡田は、現在の日本社会の問題点として「大衆社会」と「情報社会」の二つを明記しています。現在の「大衆社会」「情報社会」を打倒し、<「知識」や「知性」ではなく、「良識」や「教養」を重んずる>社会を確立させることを「悪の結社による世界征服」の本義としています。

 「悪」とは時代によって変わります。
 というより、「その時代に信じられている価値観に反対すること」が悪の定義なのです。
 そして、その流れで考えるならば、現代の「悪」とは「大衆社会」「情報社会」に反対するものになるのです。

また、別のところでは<「現代の価値・秩序基準」とはなにか?それは「自由主義経済」と「情報の自由化」です>ともあるので、「大衆社会」=「自由主義経済」、「情報社会」=「情報の自由化」という解釈なんだろうと思われます。そしてそれらの問題点を以下のように記述します。

 しかし、自由主義経済というのは、実は「貧富の差の肯定」だったりします。「誰でもお金持ちになるチャンスがある」というのは、「頭が良かったり運が良かったりする人は、どんどん裕福になってもかまわない。そうなれなかったものは『負けた』んだから同情しなくてもかまわない」という考え方です。
 強者を肯定し、弱者を軽蔑する理論。それが自由主義経済の根本的欠陥です。
 もうひとつの「情報の自由化」とはどういうことでしょうか?自由化された情報は、「学ぶプロセス」自体を軽視します。何年も研究してきた専門家の意見も、ネットのブログのちょっとした雑感も同じ「情報」という価値で判断されてしまいます。本来なら試行錯誤したり何年かけてはぐくむはずだった「価値観」というものすら、最近のテレビやネットやブログの「はやり」で決められてしまいます。
 個人から信念や価値観や考える力を奪い、社会風潮やネット内での流行=「祭り」のみで生きることを当たり前と思わせる文化。それが「情報の自由化」の暗黒面です。

そして「大衆社会自由主義経済?)」「情報社会(情報の自由化)」を瓦解させたのち建設される社会をつぎのように描きます。

 がんばって働いても貧富の差ができない社会で、なおかつ、世の中のことがさらにわからなくなる社会。ネットや「情報」に頼らず先生や上司や親などの「目上の人」の言うことを守る社会。
 まったく今の世界と逆行しています。というより、これこそが現代の「悪の理論」なのです。

この岡田の説明だと、現在=「情報社会」は<個人から信念や価値観や考え方>が奪われた世界、非現在=過去・未来は<世の中のことがさらにわからなくなる社会。ネットや「情報」に頼らず先生や上司や親などの「目上の人」の言うことを守る社会>ということになるので、いずれにせよ世界は愚民で溢れていることになり、岡田サンってやっぱり自分が君臨するうえで読者・一般大衆は愚民たれと思ってるの?という邪推は働いてしまうのだが、そんな大きな問題もとりあえず今は閑話休題*1

ここまで書いてきてあらためて確認ですが、岡田斗司夫はこれが正論だとか主張しているのではなく、岡田の理屈でいくと「悪の秘密結社の理論」「世界征服の基本とされるべき理論」を現在の現実に沿って敷衍するとこうなる、と言っているに過ぎません。そして、どうしてそんな空論めいたことをするのかといえば、一般大衆たるオタクたちにも分かるように<アニメや特撮といった「マンガ」の世界>のデータを使って社会学(というか社会学めいたもの)を指導するのが本書の本義だからでしょう。つまり有益な言説の正誤を討論するような立派な知識階層からみれば軽蔑されてしかるべき、知識序列からすれば下層に位置する一般大衆に向けた啓蒙書であるというということです。同じことの言い換えになりますが、本書は<中谷彰宏とか秋元康恋愛論みたいな、まるっきりの大衆向け評論*2>であり、言い方は悪いですが愚民が頷けるような記述であれば正誤は問われず、したがって内容について真面目に検証する甲斐はほとんどありません。しかし今現在においても、「オタク」というか「オタク第一世代」の歴史というものは岡田斗司夫の唱えた「オタク学」がほぼ唯一であり、斎藤環東浩紀らも岡田の説を批判的に受けるかたちで引き継いでいます。そして、今現在の「オタク」の情勢と接点があるかないかは置いといて、「オタク第一世代」の問題というのは、果たしてそれが「歴史」といった物語的なものに収めるのが妥当かどうかも含め、まだ明快な見解は出されておらず課題として残っていると私は思います。その課題のひとつの試みとして、岡田斗司夫の社会や歴史などの理解(すなわち岡田斗司夫の説明する「オタク・クロニクル」のベース)を検証しようというのが今のこの話であります。


それで、もとに戻って「階級」「階層」のところなんですけど、<現在の日本には「階層」は存在しますが、「階級」は存在しません。>という部分は、私はあんまり気にはなりませんでした。そう考える人にはそうなのかもねぇ、といったところです。むしろその前の<身分の格差を階級と言い、経済の格差を階層と言います>のほうに違和感を感じました。「身分」「階級」「階層」と三つあって、「階層」は多義的で全体集合のような意味だからフラットな特性ということで、「経済格差」=「格差間に緊張感の無いフラットな現在」=「階層社会」と当てたんでしょうね。でも「身分の格差を階級と言」うのはまぁそうだとしても*3、「経済の格差」は「階層」とも「階級」とも言うでしょ?それは「階層」に「身分」や「階級」といったものの上位概念の側面があるから、岡田の説明のように確固とした結びつきとして考えるのが無理な注文だということでしょう。

階層(かいそう)
かなり多義的な概念であって、一方ではカースト、身分、階級の上位概念として用いられ、他方では同じ地位を占有する人々のグルーピングとして用いられる。
(中略・大意:階層は「格づけに基づく上下・優劣の威信序列」であり、「生産手段の所有・非所有の別に基づき搾取・被搾取、支配・被支配の力関係を伴う階級とは本質的に区別される」〜つまり「階級」と「階層」は同じものを考える上での切り口のちがいという話)階層と階級との違いは、もちろんそれだけにとどまらない。マルクス主義の階級理論に原理的に対立するアメリ社会学の成層理論においては、社会が分業体系である以上、いくつかの階層に社会が分化するのは歴史を越えた必然であり、また階層分化は社会が存続し統合を維持していくうえに必要不可欠の構造的・機能的要件であるとみる。階級の分裂的、解体的契機に対し、階層の統合的契機が強調される。と同時に、階層は地位や役割への社会的分化に差別的な社会的評価(格づけ)が加えられたという意味で、階級のように客観的経済構造に根ざすものではなく、主観的な現象である。しかも、この差別的評価に基づく威信序列としての階層は、両極的に分裂し対立し抗争する階級とは違って、共通の価値を分有し、相互に調和または適応の関係にたつ連続体であると考えられている。〔『日本大百科全書http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%9A%8E%E5%B1%A4/

この<階層は、両極的に分裂し対立し抗争する階級とは違って、共通の価値を分有し、相互に調和または適応の関係にたつ連続体>というのは、同じ『日本大百科全書』「階級」の<ところで、資本対賃労働という体制的に規定された意味での階級は、客観的な利害対立を伴う差別状態を表しているが、まだそれ自体としては自らの階級的地位や階級利害についての先鋭な自覚をもった階級ではなく、資本に対する賃労働という意味での階級を構成するにとどまる。>という記述と併せ考えてみると、「下位階級が階級性に無自覚な段階では、上位階級と<共通の価値を分有し、相互に調和または適応の関係にたつ>階層としてとらえられる」という格差対立の緊張の有無の問題ということになります*4。昭和末期から平成初期の格差があまり表沙汰にならなかった時期は「階層」と捉えられ、ここ最近格差が大きく問題になった状況ではそれが「階級」として自覚されるというほどのことです。こういう、捉え方のちがいで「階級」にも「階層」にもなるというのを高級な言い方にすると、<階級や階層は社会科学的な認識操作上の分類範疇であって、経験の実質ではない*5>となるのでしょうね。

岡田斗司夫がこのように、「過去」=「階級社会」、「現代」=「階層社会」という風に説明するのは、過去の「階級社会」が確固としたものであったから(正確には、確固としたものであったという幻想に岡田がとらわれているから)で、確固とした過去の「階級社会」には確固とした「教養」が君臨していたと考える岡田斗司夫は、「教養」にコンプレックスを抱きながら過去の「階級社会」の再編をもくろむ、というのが今のところの私の仮説です。岡田斗司夫が「教養」にコンプレックスを持つというのは岡田斗司夫検証blog3 - 唐沢俊一検証blogでもさんざん指摘されていますが。
あと、以下の引用文での岡田の妙な激しさも、「階級」「階層」に混濁した「教養」へのコンプレックスの発露なのではないかと邪推しています。
オタク学入門 (新潮文庫 (お-71-1))
岡田斗司夫オタク学入門』<サブカルチャーオタク文化
カウンターカルチャーからサブカルチャーへの変貌
http://netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/otakugaku/No7.html

「そんな階級社会・メインカルチャーなんかいやだー」という反抗のパワーの源は抑圧だ。抑圧の力が大きいほど、反抗という反作用も大きくなる。こうして生まれてくるのが「カウンターカルチャー」なのだ。
「『立派な市民』なんていっても、あんたら戦争ばっかしてるじゃないか。オレたち、そんな『立派な市民』なんかになんねーよ!階級社会?クソくらえ!メインカルチャー?クソくらえ!」
これがカウンターカルチャーの基本理念だ。だからロック・スターが打ち合わせの時間に遅刻してくるのはスタイルの問題ではなく、思想上の問題である。「時間を守る?そんなコスモスな発想に付き合ってられるか!オレたちはもっとカオスなんだぜ」
これが「カウンターカルチャー」の本質なのだ。さて、これが新大陸・アメリカという「あんまり階級社会じゃないところ」へ渡っていった。ところがカウンターカルチャーのエネルギー源は「階級社会の抑圧に対する反抗」だ。見回しても、ヨーロッパほど強烈な階級社会なんてない。オレ達は何に「反抗」したらいいんだ?
ここでカウンターカルチャーは徐々に「サブカルチャー」に変貌した。
サブカルチャー」という言葉は「何だかよくわからんけど、若者文化のことだろ」ぐらいに認識されている。その認識は正しい。
アメリカの若者達には「反抗すべき階級」がなかった。階級がないから反抗の理由もない。そこで彼らは「大人になること」そのものに反抗することにしたのだ。
同時に、サブカルチャーアメリカで生まれた理由として「西海岸の消費者文化」である、という側面も無視できない。東部エスタブリッシュメントたちのピューリタニズム(清貧思想含む)に対するアンチテーゼとして、サブカルチャーは大量消費を翼賛する文化になったのだ。
この2つがサブカルチャーの基本理念だ。だからサブカルチャーは常にその時代の消費者である若者・子供達の顔色を窺う。

ここではあらたに「カウンターカルチャー」「サブカルチャー」「メインカルチャー」の興味深いカテゴライズがなされており、それは『「世界征服」は可能か?』本文にも大きく関わっているものなのですが、今回は話の糸口として「階級」「階層」の話としてここまでにしておきます。話がでっかいので面倒くさいことしきりです。

ClassじゃなくてCrassのバンド。

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群衆―モンスターの誕生 (ちくま新書)

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*1:岡田は『オタク学入門』で閑話休題の典型的誤用をしている。2010-02-07 - もうれつ先生のもうれつ道場

*2:小谷野敦『評論家入門』P.84

*3:平凡社『世界大百科事典』「身分」の項目のように、「階級」が経済関係を基底とする序列であるのに対し、「身分」は法または慣習によって定まり固定的序列として観念されるといった区別もある。

*4:であるからこそマルクスは「自覚段階に達した階級(対自的階級)」なるものを考案したのだろう。

*5:今村仁司『群集 モンスターの誕生』P.09