『オタクはすでに死んでいる』への助走(6)

ノーブレス・オブリージ」拾遺
2009-09-30 - もうれつ先生のもうれつ道場
↑にて岡田斗司夫解説によるオタク世代論(貴族主義第一世代、エリート主義第二世代、なんだかわからないけれど「萌える」がキーワードっぽい第三世代)と、その際援用された「ノーブレス・オブリージ」についていちゃもんをついたのですが、先行資料がありました。手近なところで間に合わせてるんですね、といった印象です。

岡田斗司夫 世紀末・対談『マジメな話』1998年

マジメな話―岡田斗司夫 世紀末・対談

マジメな話―岡田斗司夫 世紀末・対談

岡田はこの本の中で<日本は滅びる>というタイトルで小室直樹と対談していて、そこで小室が「ノーブレス・オブリージ」という言葉を使っています。<階層社会の風穴としてのエリートシステムを待望する>という文脈で登場しており、ほぼ間違いなく「オタク第一世代の貴族主義」というコンセプトが小室直樹のここでの話をベースに創作されたものであり、「ノーブレス・オブリージ」もその流用と考えられる。
この対談集は私には難解。最後に岡田の細君と岡田でまとめのような話をしており、この時点でオタクの若い世代に対する「わからん、これ」といった苦慮や、「おセンチ野郎」になろうとしている旨述べたり(すなわち自己オタク像のマッチョさからの軌道修正宣言)している。このことを伊藤剛氏が『オタクはすでに死んでいる』を語った際に先駆型として指摘しており、そういった流れで読んでみたのですがエライ目に遭った按配です。
岡田斗司夫氏の次の本『食べても太らない男のスイーツ』 - 伊藤剛のトカトントニズム

ラストの話で岡田が総括している通り、この本の岡田と対談相手との話に発展的な相互理解はいっさい無く、禅問答のように非明示的な断定とその解説が各々の話として垂れ流されている。
岡田の見解としては、そもそも論壇は不毛な論争に明け暮れていてとても建設的とは言えず、岡田が介入することで議論の質やステージが格段に向上する余地を有しているとニラんでいたらしい。ここで岸田秀堺屋太一鶴見済、小室、宮台真司らの論客と対談したのはその小手調べだったようだが、話してみた結論としては彼らのレベルは合格点をクリアしており、それぞれの議論は(岡田の第一印象でいう「機械の作動音」のようにうるさいだけの口喧嘩とはちがって)的確な相互理解のもと成立しており、岡田が介入して改善されるような瑕疵はなかった。

対談集を読まされる人は災難やなあ(笑)
(中略)
だいたい、対談なんだから、自分のことばっかり一方的に言うわけにはいけへんやん。それでもなんかね、小林(引用者注:小林よしのり)さんのやつなんか読んだら、そうとう僕、一方的にしゃべってんねんけど(笑)

この本の中で岡田は「自分は考えない、思いつくだけ」(大意)と自己分析しており、そもそも熟慮型の思索とは無縁の「ひらめきの人」であるということらしい。岡田の発想に則せば、たいがいのものは理屈によって変革するものではなく媒介する人間の存在が大きな役割を果すので、発言の内容当否は重要ではないとみている。それはそれで一つの見識だが、だからといって岡田の発言内容を「芸」と見るほど心は広くない(のでいちゃもんは止めない)。斉藤環戦闘美少女の精神分析』における

岡田斗司夫が「オタキング」たりうるのは、彼の知識量がぬきんでていたためでも、情報が正確であったからでもない。(中略)彼が尊敬されているとすれば、それは彼の抜きんでた虚構創造能力によってであろう。おたくにあっては、マニアにおいては厳しく要請される「情報の正確さ」の価値は、「正確であるに越したことはない」程度のものだ。

という記述は岡田の上記特性を指摘したもので、おたくの特性として「情報の正確さより、虚構創造性が優先」されるというのはそうであろうが、こと岡田に関しては正確さを欠く(か、もしくはこの時点で論旨の手綱を緩めた)ものである。

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)


『マンガは変わる  “マンガ語り”から“マンガ論”へ』伊藤剛
序・「語り」から「論」へ  『テヅカ・イズ・デッド』ができるまで


マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

やはり伊藤剛氏blogの同エントリより
岡田斗司夫氏の次の本『食べても太らない男のスイーツ』 - 伊藤剛のトカトントニズム

こうした共同体意識が生まれた心理的な背景については、『網状言論F改』所収の「網状の言論を解きほぐしていくこと」にも書きましたし、またその歴史的な来歴について、1970年代のマンガ言説で勃興した「ぼくら語り」の残照に見出す文章を拙著『マンガは変わる』の序文に書きましたので、関心のある方は参照してみてください。それなりにクリティカルなことを言っていると思います。

ということなので拝見しました。
序文概要:
・この本は'96〜'07年までに発表された原稿で成立している。この間にマンガ言説環境の大きな変化があり、変化前の言説の本質、変化中の言説の実態、変化後の言説環境への展望、これらを踏まえ<「語り」から「論」へ>というタイトルに言い表した。
・'90年以降のマンガ言説の区分は第一期('92〜'97)、第二期('98〜'02)、第三期('03〜)と三区分される。岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』関連は第一期に限定していいと思われる。
・その、第一期(1992〜1997年)について
代表的な事例として謎本ブームや『コミックVOW!』を挙げ、

マンガ作品の細かい設定を洗い出したり、作品に描かれているシーンやエピソードをつなぎ、作品には描かれていないが、作品世界の中には存在するであろう事象を想像する楽しさ
(中略)
既存のマンガの過剰な演出や、細部のおかしさをあげつらうことを楽しむ

といった批評傾向を指摘する。
これらのベースは

マンガ読者集団の共同性、すなわち「マンガ読者」という自意識を持つものであれば、同じような読書体験を共有しているはずだということを素朴に信じることのできる集団と、かつその読者集団が商業ベースに乗るほどの数で存在することが「発見」されたとうことなのである。(中略)これらの言説の多くは、読者共同体の存在を前提に、マンガの「過去」とりわけ一九七〇年代に向かう視線に支えられてきた。ただし、論者たちのノスタルジーを根拠とし、個別の作家や作品にそれぞれ向かっていったという点では、歴史観を欠くものであった。

こういった成り行きに由来する。よって個々に<批評的な達成や書誌的な研究成果>もあったが、通史としての<「マンガ史」の記述までには至っていない>。
<対象を掘り下げる考察とは、どこかで「共同体意識」や、自身のマンガ読書体験に対する思い入れを相対化する>。それが共同体外部からの批判と受け取られがちで、反発というかたちであらわれた。そういったことも含め、'97〜'98年は<「共同体意識」の機能不全がいよいよ顕著になった時期>であるとする。

謎本や『コミックVOW!』についての解説を斉藤環の言説を援用すれば、
おたくの本質である「虚構コンテクストへの親和性の高さ」「対象を<所有>するために虚構化という手段に耽溺し、虚構化の視点は多重(視点の偏在もしくは主体の不在)」、こういった事例の一般化であった。マンガそのものでなくマンガを取りまく言説やデータが商品鉱脈として発見され、マンガ批評のよりアカデミックなもの、より批評性の高いものもやり方によって娯楽として受容されうることがわかった。しかし同時に、言説の基礎となっているものが「一九七〇年代」等特定の過去に限定された教養やノスタルジーであり、普遍性を求める和解批評家や共同体意識から距離をおこうとする者の言説は排斥された。
翻ってなぜ当時の「共同体意識」なるものが、かくも排他的であったのか?それを伊藤氏は村上知彦の発言引用などから、先行した全共闘世代の持つ葛藤、自己アイデンティティーを猛烈に希求する成熟した内面と急速な社会県下がゆがみに拍車をかけた外部とのストレスから、自己単体の問題にも「われわれ」という言葉を使うような「ぼくら語り」で語る考え方が継承された結果とする。そういった内外のストレスが消失し、いや消失したわけではないだろうが共通の認識として意味を持たなくなって、ストレスは個々の問題に帰属した非社会的な領域となり、共同体意識だけが形骸化して残った。そして形骸化した共同体意識が、それにズレた感覚を持つものに強迫的な排斥となって作用したというのが10年前のことだった。こんなカンジでしょうか。

私の考えているのは、内外のストレスを抱えた上記全共闘世代が同時に「サブカルチャー第一世代」(津野海太郎高平哲郎評)であり、彼らが信奉したのがサブカルチャーの導師(グル)植草甚一であったことだ。
植草甚一は戦前からの強迫的な教養主義の時代からの人であったけれど脚光を浴びだしたのは晩年になってからであり、強迫的な教養主義とは断絶しながらも飄々とした文体でサブカルチャー学習に勤しんだ。それが心理的に閉塞感を抱いていた「サブカルチャー第一世代」には自由に見えたことの重要性は、あらためて見直される時期なのかもしれない。これはベタに言えば、かつて高平哲郎植草甚一に見ていたものとかつて伊藤剛氏が唐沢俊一に見ていたものの共通性を述べることになるのか、いやあとんでもない失礼しちゃうねえ、という話になるのか落しどころが分からないが、唐沢俊一を語る上で(もしくはオタク第一世代を語る上で)植草甚一を援用するのは失礼なことでも無意味なことでもないと私は考える。通史としての「マンガ史」を捉えなおす意味でも意義は大きいと思う。斉藤環戦闘美少女の精神分析』だってヘンリー・ダーガーが出てくるのだし、だいたいVOW!ってのは津野海太郎の発案で植草甚一責任編集「ワンダーランド」から始まったものだしね。
ということで、たぶん次のお題は「植草甚一唐沢俊一」かもしれない。だれかの逆鱗に触れるかもしれないが淡々と進めたい。
以下を参照
2009-09-24 - 唐沢俊一検証blog
彼が蛇を殺すはずがない。 - SerpentiNagaの蛇行記録

おかしな時代

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