『オタクはすでに死んでいる』への助走(5)

岡田斗司夫が迂闊な書き手であること

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

『青少年SFファン活動小史』で言及したように、岡田斗司夫は話を捻じ曲げるのが名人級に上手い。それを岡田ファンは「芸がある」と褒めるのだろう。
いっぽうでしばしば岡田は、なんでこんなところにこんなことを書くのかいぶかしむほど、記述として致命的に自己が不利になるようなことを無造作に書いている。このアンバランスさが「オタキングの魅力」ということなのであろうか?私にはよくわからない。

『オタクはすでに死んでいる』P.153〜4
第七章「貴族主義とエリート主義」<民族のアイデンティティー>より引用

実際の民族のアイデンティティー問題でも、類似の現象は見られます。たとえば、かつてはインディアンと言われていた「ネイティヴ・アメリカン」の人たち。
ハリウッド製の西部劇では口を手に当てて鬨の声をあげたり、羽飾りを身につけて弓を射て、白人と戦ったりしています。
この「ネイティヴ・アメリカン」という人たちはもういません。もちろん、その子孫たちはいて、民族の誇りを持っているのかもしれません。しかし少なくとも、白人と戦っていた時代の「民族の文化」というものを、もはや維持できなくなっています。白人の作ったコーラを飲んで、Tシャツを着ている時点で別物になっています。
同様に、アイヌの子孫は今もいますが、純粋な意味でその文化を継承しているアイヌはもういません。縄文人の子孫は今いるけど、私たちは縄文人ではありません。日本人は侍の子孫かもしれませんけれど、私たちの誰ひとり、すでに侍ではありません。

ええと、ちょっと脱線します。書き写していて気がついたんですが、私あんまり西部劇に造詣深くないのでそういう雄たけびがあったのならごめんなさいですが、「口を手に当てて」ってのは「口に手を当てて」の間違いですよね?「アワワワワ」ってヤツでしょ?あれは手を前後に動かすのであって、首を前後に動かすんじゃないですよね?こんな間違い見つける予定じゃなかったのに……。閑話休題

上記引用文、オタク民族問題が本物の少数民族の問題に横滑りして、ここでは差別にからむ話となっています。
とうぜん岡田は承知しており、だからこそこの後ろで自分の体験として在日朝鮮人のコミュニティを身近で見た感想を述べています。ですから非常に慎重に論を進めているつもりなのでしょうが、ならばどうしてここで「侍」がでてくるのでしょう?忌野清志郎が小学生の頃発表したマンガ同人誌のプロフィール欄に「せんぞは ぶし」という項目があって(同人全員「せんぞは ぶし」なワケだが)たいへんほほえましい。小学生の栗原清が「せんぞは ぶし」というのはほほえましいけれど、いい大人の文筆業者に「日本人は侍の子孫かもしれませんけれど」と屈託なく書かれても、
1.岡田斗司夫は読者を舐めている、というあからさまな表明
2.そんな高級な話ではなく、岡田斗司夫の教養はこの程度
3.どっちでもいいけれど、とりあえず編集者はチェックするべきだろう
いろいろ考えてしまいます。
差別について慎重に語っているようでいて実は無神経な記述、特に「(インディアンの文化は滅び)民芸品を模倣してドライブインで売るべぇ」ってのはどういうつもりか問いたいところだが、唐沢俊一検証blogでコメントしちゃった部分なので触れない(どのエントリか失念してるし……)。いや「縄文人」や「侍」の例を出しちゃうのがまさしく無神経の賜物ではあるのだけれど、それなりの常識ってものがあるでしょ?
現状肯定論として「ネイティヴ・アメリカン」「アイヌ」などの文化は滅んだと言うことじたいに不審はない。「縄文人」も、ちょっとヘンだけれど見逃そう。しかし、畳み掛けるように「侍」と出したら意図的かな?って思いますよねぇ?だから「岡田斗司夫は読者を舐めている、というあからさまな表明」かなと思ったんだけれど。
だから、なんて纏めていいかわからないけれど、とりあえず岡田さんはオタク第一世代なんだから、もうちょっと修行してもらって教養を高めてもらいたい。そう期待して終わりの言葉に替えさせていただきます。

新装版 生卵 忌野清志郎画報

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