]『オタクはすでに死んでいる』への助走(4)

青少年SFファン活動小史

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

岡田斗司夫はオタク世代論を解説する際に難波弘之『青少年SFファン活動小史』(以下『小史』)を援用している。岡田の説くオタク・クロニクルと難波『小史』内の記録が似ているからだという。
『小史』はSF同人誌『宇宙塵』1972年10月〜73年2月に連載された、1960年代の中高生を中心としたSFファン層の活動を綴った記録である。以下で閲覧できます。
『青少年SFファン活動小史』目次(http://www.k4.dion.ne.jp/~sow/sf/uchujin.html
第一章:黎明期の青少年ファン
第二章(上):第二世代の登場
第二章(下):第二世代の活動
第三章:”プラネッツ”の衰退と”バグ連合”挑戦
第四章:青少年ファンダムの発展的消滅
1964年頃、中学〜高校生を主体とした青少年のSFファンによるサークルが各地に生まれる(第一世代)。十いくつあったサークルは連合を組み活動を強力なものとしようとした。
翌1965年、上記連合内の中心人物が一般の(すなわち大人のSFファンが運営する)同人誌に、少年SFファンからの苦言という内容の投稿を寄せ、これが一般SFファン及びSF作家たちとの軋轢をうむ。特に作家側の反応は敏感で、一人の少年の投げかけた波紋は年を越してもしこりを残した。とはいえ、この問題が発展的な展望を生むことはなかった。
また1965年頃から第一世代より3〜4歳下の第二世代がうまれる。第一世代が二十歳前後を核として社会人もおり、一般SFファンとの差が曖昧になりつつあるのにくらべまだ子供こどもしていること、両者が享受したSF環境の相違というのが世代を隔てた。
1967年のSF大会で第二世代主体の活動が活発化。第一世代の思惑では、第二世代のコミュニティは第一世代の連合に吸収されて世代交代し運動は継承される予定であったが、第二世代自身は第一世代との隔絶感よりそれを拒んだ(それぞれの個人はこの限りではない)。
1968年第二世代のいくつかのコミュニティは合併し新クラブを設立、SF大会に臨む。このときオールドファンの減少が目立ち、参加者の低年齢化が顕著になった。しかし新クラブは翌年早々崩壊。その理由を

赤字による代表の自腹切りが大きすぎたことと、百三十名という人数を管理しきれなかったことが直接の原因である。が、いわゆる「SF」にあきたり、ファンダムの現状に満足できなかったことも大きな原因とみられる。

と難波は記している。
1969年から第一世代主流派の連合組織の活動は衰退し、この衰退に呼応するように第二世代の「批判的な」勢力の動きが活発化する。批判勢力の言動は非論理的ではあったが、同世代にしてみればうなずけるものも少なくなかった。このあたりの難波の解釈は

結局“プラネッツ”(引用者注:「第一世代主流派の連合組織」)は内と外から崩壊していった。内では年齢上昇にともなって実質的に青少年ではなくなってきたことから、存続理由がなくなったこと。外では後継者が現われなかったこと。その代わり“バグ”(引用者注:第二世代の批判勢力)や“SFターミナル”(引用者注:第二世代コミュニティの合併新クラブ「青少年SFターミナル」、のち縮小し「新創作集団」)のような新興勢力が現われたのである。そして、筆者自身、その頃から、第一世代の誤算は小社会幻想よりも、青少年社会幻想(大人の社会の対立概念としての青少年社会という考え自体に無理があったということ)ではないかと思い始めた。とは言うものの、まだやはり青少年という仲間意識は強かった。例えば“プラネッツ”の事実上の崩壊や、合併後半年足らずでより小規模な“新創作集団”に衰退した“青少年SFターミナル”の失敗は、それに代わる横のつながりが何か欲しいという動きをいくつか生み出した。

としている。また同年の8月のおわりに「SFフェスティバル」が開かれ、<視覚に訴えるものが殆どという面白いプログラムがだった>が、<はじめ、青少年大会ということで企画されたが、プロに依存する部分の多いプログラムの性質上、大人ファンダムをも含んだ形>とのことで特に第二や第三世代云々という記述はない。
このあとこのSFフェスティバルが青少年ファン主体で完遂できなかったことへの批判と、来るSF大会が体制的な万博を容認・連動していると言う批判が飛び出し、状況はSF大会運営委員退陣を招く。
この後もSFファン・コミュニティの活動は解散再編しながら各々継続してゆくだが、以前あった「大人ファンの活動」下火となり少年〜青少年によって席巻された。
以上が難波弘之『小史』の私なりの要約です。


岡田斗司夫の要約する『小史』
さて、岡田斗司夫の解説では、青少年SFファン第一世代と第二世代は4つちがいだが明確な差があること、第二世代(具体的に当時の難波)の大人SFファンへの屈託に、オタク第二世代の第一世代への反感と共通したものを見ていることなどをあげている。
岡田はオタク第一世代・第二世代といった世代間の問題を、『小史』内で扱われている問題と「すごく似ている」とか「いま直面している問題と酷似しています」と書いている。しかし、青少年SFファン第一世代とオタク第一世代、青少年SFファン第二世代とオタク第二世代がそれぞれ対比もしくは酷似しているとは書いていない。
それはもちろんそうで、最初に大人SFファン・プロ作家を批判したのは第一世代だし、『小史』を執筆した第二世代の難波弘之自身が、「SF作家」でもあろうけれど一般的には音楽家として高名であり、言ってみればSF・音楽とマルチに知識・教養を持ち合わせた「貴族主義」者であることでも了解できよう。こう書いちゃうと実際そう見えるもので、『小史』執筆もそうだろうけれど、前に紹介した黒沢進『熱狂!GS図鑑』の難波のコラムでは、当時評価して何の特にもならないGSの楽曲を音楽家として正面から批評しており、特に顧みられることのなかったテンプターズ松崎由治の作曲能力に言及、そういった目配りには本人の風貌にふさわしい「ノーブレス・オブリージ」を感じずにはおれない(皮肉ではない)。

岡田は

つまり、青少年SFという、中学生、高校生がSFファンをやろうという運動があり、それが大人のSF大会に自分たちで立案して、講演会をやろう、発表をしようという場が与えられ、そこに社会全体の学生運動の波が押し寄せる。「とにかく上の世代と対立せよ」と急き立てられる。
しかし、実はSFファン同士では上の世代に反抗しようにも反抗しようがない。なぜならおたがい趣味仲間だから。
もちろん、それでも若い世代に反抗心みたいなものはあるし、上の世代の人たちが言っていることはなんだかヘンだと思うところもある。
ところが「なんだかヘンだ」という思い込みをぶつけても、「いや、若者は反抗するものだからね」と上に立ったようなものの言い方で、否定されるんじゃなくて、肯定さえされてしまう。
それでも、もめごとだけは大きくなってくる。「若者は反抗するものだから」と余裕を見せていた上の世代の人はそれが嫌となってやめちゃった。そして、自分たちが後を継いで立つようになった。しかしだからといって、別に理想のSF業界が出来るのではない。結局、馴れ合い的、惰性的にSFファンたちの活動はそれからも続いたわけです。

こう解説し、おそらくその根拠となる原文を引用している。以下がそれ

筆者も、デモなどに良く参加していた頃、SFファン活動や学生生活などとの多面生活をどうとらえたらよいのかわからずに随分悩んだものだが、ある時、ある大人のSFファンの方から「若い人が反抗をするのはむしろ若い人の義務だ。若者の反抗のない社会などまったく刺激のない停滞した社会だ。そんな社会は面白くないし、魅力もない。」とひどくSF的な見解をつきつけられ、そのあまりにすっきりと巨視的な立場から見事に反体制運動を肯定されていささか唖然とした覚えがある。同時にすべてをこうした立場と感覚で処理してしまう(あるいは処理できる)SFファンの思考方法に大きな問題を感じ、この先自分がSFというものの考え方についてゆけるかどうか、一時は本気で不安になった。

じつはこの続き、岡田が引用しなかった文はこう続く、

今でもこの疑問を、しばしば自分に向けてみる。以前から、SFファンだけはどこか他の人と違う考え方をするという観念をはっきり持っていたため、教師や親や先輩にはかなり議論をふっかけ、喧嘩もしたのに、SFファンの――それも確固たる自分のSF観を持った人の前に出ると、妙にちぢこまってしまい、今の自分にとって何か新しい視野が開けるのではないかという漠然とした期待をもって対してしまうのであった。今でも、筆者が会合などで、『すぐれたSFは不愉快なものであり、中途半端に不愉快なのは何か物足りない』とか『文学者が卒倒するような話だ』などと発言するのは、あながち冗談ではなく、自分の中にまだどうしても、常識的なヒューマニズムをのりこえなければ到底現れてこないような事柄を、あたかもひどく一般的な前提のような顔をして平然と話しているSFやSFファンが、本当はまだ多少こわいというのが本音なのである。閑話休題

これを発表した1973年当時難波は已然このように考えており、「閑話休題」とおどけているのが逆に本気さを感じさせる。若者の反抗心とかいう問題ではなくSFの持っている可能性を信じての問いかけであり、岡田が世代論に援用できるような心無い思い出話ではない。

岡田は青少年SF第一・第二世代をオタク第一世代・第二世代と比定させてはいないと書いたけれど、似てるでしょう、酷似してるでしょうと香具師の口上の如く繰り返し、そうすれば読者はそれを読んでそれぞれの第一・第二世代が同質であると了解してしまうと、普通なら考えが及ぶだろう。明らかに難波『小史』は岡田の記す「オタク・クロニクル」より複雑・混沌としており(つまり「時代の熱気」が感じられ)両者とも「同じようなこと」とするのは(この点なんども繰り返して恐縮だが)乱暴な論旨である。思わず「香具師の口上」などと言ってしまったが、この辺の得手勝手な解釈の手際は正直凄いと思う。才能があるのを認めないわけにはいかない。なぜこんなところばかり達者なのかは不思議に思うが。
(文中敬称略)

熱狂! GS(グループサウンズ)図鑑

熱狂! GS(グループサウンズ)図鑑

ゴールデン☆ベスト 難波弘之WORKS

ゴールデン☆ベスト 難波弘之WORKS

追記
このあたり、『唐沢俊一検証blog』2009-02-07「唐沢俊一vs東浩紀(後篇)。」(http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/20090207#c1234026939)コメントのちょっと前に『オタクはすでに死んでいる』を初めて斜め読みした頃から非常に気になっていたことなので、ちょっと感無量です。いまこのエントリを読み返すと、あらためて面白い。『キャラクターズ』はいま朧げに思い返すと、筒井康隆の印象より深沢七郎『風流夢譚』が重なってくる。記憶劣化かしら?

キャラクターズ

キャラクターズ