『オタクはすでに死んでいる』への助走(1)

岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』は2008年に発表された。同書のベースとなった岡田トーク・ショー『オタク・イズ・デッド』は2006年開催。
ただし「オタクの終焉」に先鞭をきったのは伊藤剛。「伊藤剛のトカトントニズム」2007/07/28*1

http://www.t3.rim.or.jp/~goito/indexx.html
裁判を記録した旧サイトです(2000年からこっち、全く更新していません)。
ここに書かれている見解は、00年当時のものであり、いまからすると岡田斗司夫氏の「オタク・イズ・デッド」を予見していたかのようにも見えますが、同時に、唐沢氏のパーソナリティの問題と、彼らが自らを「オタクである」と規定する自己イメージの問題を弁別せずに語っている嫌いがあります。その点に関しては自省するとして、しかし、自分でも忘れていたような細かい展開が記述されていて、少し驚いています。はっきり言って、当時は相当たいへんでした。精神的なストレスも大きく、また経済的な負担も大きかった。

今現在「旧サイト」への確認は(私は)出来ないが、光文社『国際おたく大学』をめぐる裁判が終結した2000年に発表された「”オタク”が終わったあとに」という文と思われ、だとすればこれがおそらくすべての始まりだった。その中より引用、

●ここでいう”オタク”とは。
終わったのは、裁判だけではありません。
岡田斗司夫氏/唐沢俊一氏らが提唱し、ある「生き方」として、自己に対する認識としての考えていたような概念について「終わった」と言っています。ここでは、一般に使われているような「オタク」「おたく」からは限定した意味のものを"オタク"と表記しています。
ただし、ここで私が「終わった」としているのは、彼らの言説に何か社会的な有効性があるかのように感じられていた、ある種の”幻想”を指して言っているのであって、彼等の存在をことさらに特別視するものではありません。
むしろ、問題としているのは、彼らを支えてきた人々の意識の方なのです。
(中略)
唐沢氏の極度のアカデミズム嫌悪と、抽象的な概念に対する理解を殊更に排除する態度などから考えるに、「アインシュタインは間違っていた」と言い続ける疑似科学者やその支持者と相似形のルサンチマンがあるように思います。

うわあ、これおよそ10年前の文章なのにぜんぜんブレてない……。

ということなので、『テヅカ・イズ・デッド』読まなきゃならないのか(まだ未読)。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

追記
東浩紀編『網状言論F改ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』2003年
にて
岡田斗司夫氏の次の本『食べても太らない男のスイーツ』 - 伊藤剛のトカトントニズム

このキャッチコピーに「オタクは死んだ。だが萌えは生き残る」って書いてました。
この本、もう5年も前なんですねえ。早いもんだ。

ということだそうです。失礼しました。

また『マンガは変わる』序文も上書所蔵文の関連だそうです(……いずれ読みます)
マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

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