いいっぱなしコラム『からさわくん』(2)

今回も取り上げるのはこの本。
なぜわれわれは怪獣に官能を感じるのか
『なぜわれわれは怪獣に官能を感じるのか』唐沢俊一/編著(河出書房)

前振り
もともとはシルバー・ウィークに岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』を読んでいて、私は岡田らの定義する「オタク」をのことを殆ど知らないので、同書で取り上げられている「オタク第二世代評論家」の本その他を少し勉強し要らぬ知識を身につけたというのがはじまり。それでいずれは私も『オタクはすでに死んでいる』について何か駄文を書くんだろうとは思っているのですが、こころなしか荷が重い。あ、誰かもそんなこと言ってましたね*1。面倒くさいですよね、斎藤環戦闘美少女の精神分析』や東浩紀動物化するポストモダン』をちゃんと読まなきゃならないので。
まあそういった大儀さから、助走をつける意味で軽めの『なぜわれわれは怪獣に官能を感じるのか』を取り上げた次第です。たぶん『戦闘美少女の精神分析』とも重なると思ってね。
戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

というわけで
基礎編(1)「暗喩文化としての怪獣・特撮」
5.斎藤環戦闘美少女の精神分析』のアプローチとの近似性

精神科医斎藤環氏などは、オタク世代の性の依って来るところを、アニメの中に描かれた美少女により培われたものとして考察している(『戦闘美少女の精神分析』による)が、しかし、本来、オタクの根元には、アニメより先に特撮というものがあった。アニメでは直截に絵として描かれる性というものが、実写映画では、それをさらに数層倍のイメージの奥底に塗り込めなければならない。

引用文で唐沢が言っていることは、斎藤環の考察よりも自分がこの本で打ち出した主題のほうが「根元」的であり優れているということであろう。<本来、オタクの根元には、アニメより先に特撮というものがあった。>っていう意味が具体的にどういうことかはわからないけれど。『戦闘美少女の精神分析』の中で挙げられているアニメで最古の例『白蛇伝』(’58)より怪獣映画『ゴジラ』(’54)のほうが「先」だって意味かしら?
斎藤環が『戦闘美少女の精神分析』第一章<「おたく」の精神病理>の中で言っていることを唐沢の本と引き合わせて要約すると、

1.過去、マニアの一部がメディア環境の変化により隔離状態となり、オーストラリアの有袋類のような進化を遂げた。
2.彼らは、比較すればマニアが極めて社会的実利的に見えるほど「虚構コンテクストに親和性が高く」、「虚構それ自体に性的対象を見い出すことができる」人間である。
3.この「おたく」と呼ばれるものをカテゴライズする言説で、いままで致命的に欠落していた視点がセクシュアリティの問題である。
4.「おたく」は虚構のファリック・ガール、戦闘美少女に自我理想(「かくありたい自分」)と性的内面(セクシュアリティ)の二面を投影し進化してきた。

とまとめることが出来る。唐沢文より論旨が数段高度だし、射程に入れている問題も大きなものだ。なにより唐沢のテーマが斎藤本のお粗末な二番煎じなのが分かってしまう。斎藤の論を持ち出すと、そもそも昭和30〜40年代に「セクシュアリティーの暗喩」が作り手側観客側相互の了解のもと流通していたという唐沢の説が成り立つには、この時代すでに(虚構コンテクストに親和性が高く、虚構それ自体に性的対象を見い出せる)成熟した「おたく」が誕生しており数としても「マニア」を凌駕していなければならない。それは結局唐沢のこの本が、無理な前提条件の上に捏造されたものである証明となる藪蛇になってしまう。このあたりは岡田斗司夫の言説にも共通する第一世代の致命的な弱点、自己に大甘で論理的思考が苦手ということの再確認となりました。

以上『なぜわれわれは怪獣に官能を感じるのか』感想文終了。ウルトラセブンを倒してしまうキング・ジョーの「性的暗喩」などにも言及したかったけれど、下らないので止めときます*2


            ×                ×
気分直しに下手な歌を貼っておきます。
少なくとも皆川おさむ「黒猫のタンゴ」よりこっちのほうが<性の暗喩>ではあるので(ストーカーな内容だし)・・・
「僕は狼(三ツ矢祐司のテーマ)」
姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』第六章<下校>憑依

ツ、イ、ラ、ク (角川文庫)

ツ、イ、ラ、ク (角川文庫)

*1:http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/20090921/1253565936#c1253792200

*2:性がどうたらということじゃなくて、一目瞭然セブンよりキング・ジョーのほうがヴィジュアルとして「カッコよかった」からセブンを倒せたのだろう?