いいっぱなしコラム『からさわくん』

主人公:パクリ全文くん
長尾謙一郎のマンガ「いいっぱなし漫画 はいからくん」参照)

今回話題に取り上げるのはこの本。
なぜわれわれは怪獣に官能を感じるのか
『なぜわれわれは怪獣に官能を感じるのか』唐沢俊一/編著(河出書房)

(おそらく)唐沢の持ち込み企画と思われ、タイトルのごときテーマのもと、交友関係のあるライター諸氏に一文を依頼してデッチ上げた本。各ライターはテーマにのっとり怪獣への性愛について頑張って執筆しているようだけれど、(編者本人含め)誰も怪獣に官能を感じているわけではないのがバレバレで、出来はスコブル悪い。
執筆者は河崎実実相寺昭雄睦月影郎ほか多彩。唐沢俊一本人は前書き、基礎編(1)、応用編(1)の3パートを執筆。ほかに実相寺や開田裕治品田冬樹らの「対話編」パートの聞き手をこなし、ライター紹介短文を書いている。
対話編が作り手へのインタビューになっているので、ファンであればそこに触手が動くところだが、期待すると損をすると思う。私が実相寺監督などにまったく関心が無いこともあるだろうが。いちおう聞き手唐沢の投じた質問に対し実相寺らも話を合わそうと努力はしているようなのだが、かえって聞き手の意図と乖離してしまっている。そういう砂を噛むような不毛感を味わいたければご一読お薦めします。

今回取り上げるのは基礎編(1)唐沢俊一:文「暗喩文化としての怪獣・特撮」
この文の主旨:
昭和4、50年代の怪獣映画には性への暗喩が隠されている。それは当時幼かった自分にも常に自覚的に認識しうるものではなかったものの、違和感として確実に記憶に刻まれている。さらにいえば、怪獣映画に限らずこの時代の下位文化の表現には、必ず性の暗喩が隠されているといえる。それはこの時代急速に表現が成熟を極めるいっぽう、表現の自由は旧態依然の枠組みで制限されていたゆえに、制限をもてあそぶことで表現の進化をはかったものである。
以上。あとは個別の作品についてのデータとその解説となっている。とくに怪獣に官能は感じたことはないので「こういう考えの人もいるのか……」ていどの感慨はあるが、この本の前振りとしてはあまり不審はない。
さて、それではその「個別のデータとその解説」の部分の話をしようか。

1.単純な誤記
自分語りではなはだ恐縮だが、私は「戦え!オスパー」がアニメ・特撮のピークだったので、それ以後の作品はほとんど知らない素人だ。こんな私が指摘するのもどうかと思うけれど、怪しそうだったから調べてみたら出てきましたよ間違いが……。

宇宙刑事シャイダー』における主人公のアシスタント、ハニー役の森永奈緒

ハニーじゃなくて「アニー」ね。ハニーはみうらじゅんのマンガの主人公埴輪。

コム長官役って、うわあ西沢利明さんなんですねえ。ちょっと見てみたいなあ。

2.歌謡曲における性の暗喩について
「この時代の下位文化の表現には、必ず性の暗喩が隠されている」例として歌謡曲を挙げているのだが、
山口百恵「ひと夏の経験」〜女の子の一番大切なものとは何かという女性誌アンケートで、<”真心”などという馬鹿な回答を寄せた文化人もいた>
山口百恵「美・サイレント」〜♪”……”が欲しいのです♪<”……”とは何か、文化人が”愛”だとかいう馬鹿な回答を寄せていた>
この山口百恵の曲にコメントしてる「文化人」とは故平岡正明のことだろう。『山口百恵は菩薩である』の中の曲解説から拾ったものと思われる。よって、「女性誌アンケートに回答を寄せた」といった事情は捏造と判断される。

また、皆川おさむ「黒猫のタンゴ」について<鰺の干物というのが何の暗喩だと思う?>と思わせぶりに書いているが、鰺の干物以外の何物でもないと思う。

山口百恵は菩薩である (講談社文庫)

山口百恵は菩薩である (講談社文庫)

唐沢は中一になった昭和46年、放送部に所属し放送劇を執筆した。図書委員をしたり放送部で創作活動を始めたり、お盛んな様子が伺えますが*1、そのあたりの引用、

歌詞というものが、実はかなり大胆なことを間接的に表しているのだ、と知ったのは中学生になってからの昭和四六年、野口五郎の「青いリンゴ」を聞いたときであったと思う。
当時放送部に所属していた私は、放送劇の台本のセリフに
「死ぬ前に青いリンゴの芯をしゃぶりたかった」
と、これは確信犯的に書き、顧問の女性教師が検閲でそこをカットして、顔を赤らめながら
「まだキミたちにはわからないだろうけど、この歌詞には裏の意味があって……」
と言うのを、ニヤニヤ笑いながらながめていた。

これは、リンゴの縦割り断面図で芯の部分が女陰を連想させるという意味か?まずそれが暗喩として一般的に了解しうる事柄だったのかが疑問点1.、そうだったとして女性教師にもダイレクトにそのことが了解され、その話を前提に男子生徒に上記のような忠告は可能かが疑問点2.

3.やはり性の暗喩が隠された例として三島由紀夫の短編「憂国」を挙げる。
弟なおきの盲腸手術が昭和45年11月25日だったらしく、<うちの弟と三島は、同年同月同日に腹を切ったわけである>と小ネタを振ってから三島の短編「憂国」の話となり、

その作品には、切腹する青年将校とその妻との、死の前の濃厚極まる情交シーンが描かれていた。それは、それまでにマセガキであった私が盗み読みしていたポルノマンガなどより、よほど直截的な性描写であった。
……私がすべて理解したのは、この瞬間であったかも知れない。今まで、われわれが見てきた文化は、すべて、この行為の暗喩であったのだ。すべて、われわれをつき動かすのはこの行為を行いたいという衝動であり、その行為を、さまざまな周辺物を描くことによって、あるいは類似性を持った事物や行動を描くことによって、マンガも、歌謡曲も、映画もテレビも、その本質をぼかしながら、こちらにメッセージを送っていたのだ、と。
この考えを突き進めていくと、ウィルソン・ブライアン・キイの『メディア・セックス』のようなトンデモ陰謀論にブチ当たる。

ふ〜ん……。唐沢の少年時代の性的感受性は知らないけれど、「憂国」の青年将校と妻との性描写って「腋下がどうしたこうした」調の、詳細ではあっても欲情を刺激するようなものではないよね?むしろその後の自決シーンが、性描写と同質の淡々とした詳細さで綴られ、その結果自決と性交の同質な儀式性という本作の主題が浮き彫りとなるわけで、唐沢の言う話がそれを指すのならそれはそれでひとつの見解とはおもう*2。がしかしその見解、生と死の同質な儀式性の中で生じる快感が、暗喩として社会的なコモン・センスになっていたなんて話はない。佐川一政の話をしているうちに人喰嗜好が万人に潜在する欲望だと拡大してしまうようなものだ。

4.とどめはウルトラマンの話。必殺技「スペシウム光線」がスペルマに由来するという珍説。

スペシウムという単語が、スペルマという単語から来ていることは、ほぼ明確だろう(製作者は絶対認めないであろうが)。あの発射は、クライマックス、最後の射精の快感のアナロジーである。よく見れば、スペシウム光線の表現は、非常に細かい光の粒子の噴出である。あれが、ザーメンの中に含まれる、何億というスペルマの比喩でなくてなんであろう。女性は美しいものであり、それを醜い怪獣にあてはめるのは無理がある、という意見もあるかもしれない。しかし、まだ本当の女性の美しさというものに目覚めないオトコの子にとり、銭湯などでときどき間近に目にする、”女性”の形状は、あれは異形の恐怖、自分たちと異なる形質を持った者に対する本能的な恐怖に根ざしたもの以外の、何物でもないのである。

ええと……<「スペシウム」の名称は「スペース(宇宙)」+「イウム(「物質」を意味する接尾語)」から成り、命名とポーズの考案は脚本・監督の飯島敏宏によるもので、飯島曰く十字ポーズは忍者が手裏剣を投擲する際の動作が元になっているとのことである*3>だそうです、へえ……。それも問題だけど、あと銭湯の女湯でそうそう”女陰”を目撃できるもんかなあ?というのが私の違和感。

おしゃれ手帖 第10巻 (ヤングサンデーコミックス)

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