「しゃぼん玉」/「赤い靴」『捏像』

『捏像 はいてなかった赤い靴――定説はこうして作られた』阿井渉介 著(以下『捏像』)

唐沢俊一検証blog』09-04-14エントリの<パチスロライターパチスロ知らず?>
http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/20090414/1239697175)。パチスロの話がテーマの筈が、なぜか派生してしまったのが「しゃぼん玉」問題。「なぜか」は無いか、私がつまんないこだわりでブーブー言ったせいでしょう。

パチスロライターパチスロ知らず?>本文は手直しが入って既に該当箇所は削除されているのですが、たしか前振りだか脇道にそれたかの時にネット版『社会派くんが行く!』のその頃のトピック「先生を流産させる会」の話になったのが発端。例によって唐沢(と村崎百郎)が事件をネタにテキトーな話を転がしてゆくのですが、そこで野口雨情作詞の「しゃぼん玉」は農村の間引きの歌だという俗説を披露したことに、当初『唐沢俊一検証blog』さん(以下kensyouhanさん)が本文で疑念を記した、というかツッコミをいれた。それを受けたコメント欄で、

>野口雨情が幼くして死んだわが子を偲んで書いた「シャボン玉」を、農村の間引きの歌にしてしまうなんてあんまりです。(Talgoさん)
>野口雨情が幼くして死んだわが子を偲んで書いた「シャボン玉」
これは私も知ってたくらいですが。(Sawaharaさん)

と雨情自身の夭折した子供について歌ったものというのが定説という流れが大勢となっていたので、<「間引き」の歌だという説も、野口雨情が幼くして死んだわが子を偲んで書いた、というのも特に根拠のない俗説だったのでは?>といったような水をさすコメントをしてしまいまいました。童謡の解釈については、雨情も関わった「新民謡運動」の記事をなにかで読んでいたとき、当時の運動の担い手(童謡・民謡作詞家)がこういった作家個人の軌跡にそった解釈を批判していたのが印象に残っていました。また雨情のような古い時代の流行詩人が、自作に言及するとしても自分個人に引き寄せるとはとうてい考えられない、そういう見通しで「間引きにせよ夭折した我が子にせよ、確実な資料としてはでてこないから、両方とも俗説の域をでない」とかブーブー言って、kensyouhanさんにテキトーにあしらわれていたわけです。
それで2,3日後Wikiで『捏像』という本の存在を知り、「特定の個人を詠ったものはない」と言っているのは私一人じゃないぞコメントを入れたといった次第。あまつさえそう主張してるのは第2期「ウルトラ」シリーズの脚本家、阿井文瓶こと阿井渉介だぞ、と。「ウルトラ」シリーズは、私より詳しい人はkensyouhanさんだけでなくコメント欄諸氏大勢いるのに、そんなことすら知らないのか、と。鬼の首取ったかのような勢いですが、要するに、foobarさんの「鬱陶しいなあ・・・」発言の鬱憤を晴らしたかっただけですな(だって内容についての揶揄ですらなく「鬱陶しい」は無いだろう・・・)。
以上が4月中頃の話、

7月中旬になると『猫を償うに猫をもってせよ』<どうでもいい話>(http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20090715)にて『捏像』が取り上げられ、「阿井渉介ボロッカス」(私の読み方です)に批判されました。私もこの少し前から読んでいて、というかあんまり気色悪い文と杜撰な論旨のせいで未だに読みきれておらず、小谷野さんの後半『捏像』完読してないなと思わせる批判も、見当はずれという以前に同書を読み進むうちに抱く苛立ちや本を投げ出した伝法さが伝わってきて、こういったときの小谷野敦は文筆業者としてカッコいいなぁと、ワリと肯定的に見てたのでした。
すると、私はつい先日まで知らなかったのですが、『milinglistの日記』<野口雨情>(http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20090715/p1#c)にて『猫猫』<どうでもいい話>が取り上げられて、そこでは小谷野さん本人とのコメント応酬が繰り広げられていたと(「いや、応酬なんかしていない。mailinglistは物を知らないで書いているから2,3回教育的指導をしたまで」とか言いそうな予感もしますが)。

        ×                    ×

杜撰とは言いながら、『捏像』に引用されている雨情と雨情の息子存彌の文を読むと、両者とも雨情の詩を現実の事件をもって解釈することを戒めているようにもとれます。雨情自身のはすごく不思議な文ですが。

(『捏像』p.117 野口雨情『童謡と童心芸術』より―「赤い靴」内容の解説)

この童謡は、小作「青い眼の人形」と正反対の気持ちを歌ったものであります。この童謡の意味は云ふまでもなく、いつも靴はいて元気よく遊んでいたあの女の児は、異人さんにつれられて遠い外国に行ってしまってから今年で数年になる。今では異人さんのやうにやっぱり青い目になってしまったのであらう。赤い靴見るたび異人さんにつれられて横浜の波止場から船にのって行ってしまったあの女の児が思い出されてならない。また異人さんたちをみるたびに、赤い靴はいて元気よく遊んでいたあの女の児が今はどこにどうしてゐるか考えてならない。という気持ちをうたったのであります。/ここで注意を申し上げて置きますが、この童謡は表面から見ただけでは、単に異人さんにつれられていった子供といふにすぎませんが、赤い靴とか、青い眼になってしまっただらうということばのかげには、その児に対する惻隠の情がふくまれてゐることを見遁さぬやうにしていただきたいのであります。

・・・ね。この文は前半は「赤い靴」の詩を単純に韻文化したものだし、後半は「詩のことばのかげに惻隠の情がある」といってるに過ぎない。まったくその通りで、作者本人がこう言ってるのだから特に不備はないのだけれど、これではけっきょく何にも言っていないのと同じようにも思う。だから穿った見方をすると、雨情は自分から引き離して、創作物として評価して欲しいといっているようにも捉えられる(が、違うかもしれないが)。阿井渉介は、雨情の詩に特定の事象は関わりなしとする説の根拠を、主にこの記述に求めている。

息子の存彌のほうは分かりやすい。
(『捏像』p.141 野口存彌『定本 野口雨情』第三巻解説より)

明治末年から大正七年までの詩壇的空間期は、雨情にとってそのまま特異な人生苦、人間苦を味わわなければならなかった時代である。だから、詩壇復帰当初の童謡作品には、そのことのある種の反映を感じさせる場合があるものの、そうした作品の場合でも雨情の個的なものに即して解釈してしまうことには無理が伴う。雨情の詩歌への関心はあくまで伝承民謡や『万葉集』等の伝統的詩歌に方向づけられており、その結果として、個をこえたところに存在する普遍的なものをうたおうとすることが、詩人に必要なドグマとさえなっていたとみられる。

個に即していないという事実は、自分の子供をうたうことがなかったことからも明らかである。雨情の念頭にあったのは、ひろく世の子供たち、日に日に成長していく不特定多数の子供たちの声や姿だったと言える。

「伝承民謡や『万葉集』等の伝統的詩歌に方向づけられており」というのは、たとえば「赤い靴」(大正10年)は前年発表の「人買船」からの発展形とし、「人買船」じたいは室町時代の『閑吟集』<人買船は沖を漕ぐ/とても売らるる身を/ただ静に漕げよ船頭殿>に触発されたということなどを指す。私も俗説に毒されているから、「ということは、『人買船』の最後の<皆さん/さよなと/泣き泣き/言うた>ってのは、巷間云われてる大逆事件の菅野すがのエピソードからきたっての、あれもガセ?」とか疑問は尽きない。

なお、けっこうクドイ話だったような気がするので、おちゃらけで、ひょっとしたら向井秀徳は野口雨情「四丁目の犬」の詩を参考にしていないかという妄想のもとにナンバー・ガール『鉄風 鋭くなって』を貼ってお茶を濁します(そんなワケはないので『折々のパクリうた』ではない)。

「四丁目の犬」
野口雨情作詞、本居長世作曲

一丁目の子供
駈け駈け帰れ
二丁目の子供
泣き泣き逃げた
四丁目の犬は
足長犬だ
三丁目の角に
こっち向いていたぞ


鉄風 鋭くなって/ナンバー・ガール


捏像 はいてなかった赤い靴―定説はこうして作られた

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七つの子~野口雨情作品集

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OMOIDE IN MY HEAD 1 ~BEST&B-SIDES~

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追記
たいがいの評伝を読むと、野口雨情のことを子煩悩な家庭人とイメージしがちだ。子煩悩であることは間違いないようだけれど、斎藤憐『ジャズで踊ってリキュルで更けて―昭和不良伝 西條八十』によれば、最初の妻高塩ひろとの結婚は財政的な理由で(これは広く知られている)、初夜の晩に自分には愛人がいることを告白している(磯原の駅前旅館松風館の芸者)。これは、考えようによったら誠実な性格ともとれる。けれどその後、大正4年(1915年)ひろと協議離婚し湯本の柏屋に2児を連れ移り住む、といった一般的な穏当な記述にある「柏屋」とは磐城湯本温泉の芸者置屋だという。ここの女将明村まちと昵懇となって、子供を連れて転がり込んだという態であったようだ。そしてその3年後、柏屋に出入りしていた旅館みよし野の娘中里つると再婚。これは、明村まちから中里つるに鞍替えした、ということか、まちがつるを紹介した、ということか、どちらか不明。しかし血気盛んな雨情が「近代的な家庭人」とはかなり異なったパーソナリティーであったことは間違いない。ちなみにつるとの再婚時、雨情36歳、つる16歳。