斎藤綾子『欠陥住宅物語』のつづき

(あらましを書いているので注意のこと)
4千数百万で買った中古住宅は、地下が木造式基礎の欠陥住宅だった。業者たちと争い、裁判に勝った斎藤さんは和解金4百30万の幕切れに涙を流すのであった。
以上、これがあらまし。しかし、これじゃ何の説明にもなっていないね。
この大問題を中心に、母親との相克、その母親の住む実家に起こったマンション建築反対運動への関与、セックスなどが、欠陥住宅裁判と平行して同じ次元で語られています。
現在必要とされている問題が余すところなく語られており、売れて間違いない、話題となっておかしくない、と思うのですが、そういう兆候は今のところ起きていない。
裁判と同じ次元でほかの事柄も扱われているところが、焦点の定まらない筆致と映るのでありましょうか?
ボロボロになって帰り、

そうだ、今夜はたっぷりオナニーをするぞ。そして気持ち良く泣きながら眠るんだ。

と、宣言してしまうのがいけないのでしょうか?「ボロボロになった」原因が、裁判のゴタゴタなどではなく、パチンコで負けたせいだったのも同情の余地がないのかな?
こういう日常性の或る一齣で、突然災難がやって来る。ニュースとして伝わる「事件」は、「こういう日常性」を排除して語られます。より正確に言えば、「語り口が濁るような雑多な日常性」は排除され、「口当たりの良い善良な日常」が創作されます。排除の根拠となるのは、「中立性」といわれる報道哲学なのかもしれないし、もともとメディアが持っている体質なのかもしれない(森達也さんに訊いて下さい。前に書いた「ドキュメンタリーは嘘をつく」を参照)。
そういえば耐震強度偽装問題で上へ下への大騒ぎの時期、売買行為は自己責任の範疇であり、そもそも、建築法の体系が崩れかかった近年、集合住宅を購入するという甘さが問題なのではないか?という意見も市井の研究家のなかから出ました。なるほど、その理屈にも一理あるなぁ、と思ったのですが、だからといって個人購入者が自己責任を全う出来るかというと、ほぼ不可能でしょう。しかも、耐震偽装問題の当事者(あるいは「被害者」)の救済がなされたかどうかは置いて、それ以前に、そのほかの欠陥住宅の当事者(あるいは「被害者」)は相変わらず「自己責任」を強いられているに違いないのに。
<「自己責任を強いられる」って、そんなの基本だろう?>
まぁ、そうなんですが。なんとなく、悲劇の本質は、悲劇の発生が個人に起こり、決して社会に及ばないことだなんて一節が思い出されてね。
上の太字は、前に書いた橋本治オイディプス燕返し!!蓮と刀・青年編1』にあったように記憶しますが、本書はダンボールに仕舞ったままなので正確ではないと思う。全然違ったりして。確か、ギリシャ悲劇を扱った章で、個々の役柄を演ずる俳優たちの背後で悲劇を見守るコロス(コーラス隊)の存在に着目した記述にあったはずです。悲劇は常に「個々の」俳優に起こり、コロス(=一般市民)には語られる物語が発生しないなどなど。
それでは、「個々の」俳優たちが悲劇を演ずるのを放棄し、問題を「社会」に投げかけるに転じた時はどうなるのか?それまで俳優たちの悲劇性に慈しみを湛えていた仮面は脱ぎ捨てられ、冷酷で排他的なコロスたちの素顔が顕れる。と、こんな図式的な話は語るに落ちるですが、じっさい現実として図式通りなのがなんともはやですね。前に書いた辺見庸佐高信『だまされることの責任』にあったように、敗戦後の戦災孤児・戦争未亡人・残留孤児は事実上悲劇の主役であり、だからこそ彼らに許されたのは「美談(すなはち悲劇)」としての物語に蟄居することのみであり、彼らが悲劇を放棄しこちらに救いを求めること・問題を委ねることをコロスは拒絶したというわけです。
よその国がどうだかは置いといて、中世からハンセン氏病を「天刑病」と別称し、カルマの中に悲劇を押し込めたのも、そういった思想が底流にあるのでしょうね。いや、ハンセン氏病患者だけでなく、卑賤観の基礎には「全うが不可能な自己責任の強要」がありますね。ただ近代以前に「個人」や「自己責任」なんてなかったから、「輪廻」「業」(カルマ)といったのですが。
説教節「小栗判官」で、遊女となった照手姫は、墓より再生した天刑病の小栗判官を車に引いて巡礼の旅に出ます。荒ぶる武者であった小栗に天罰として下ったこの悲劇に、「善良なる」民衆は感涙します。いっぽうで、その「善良な」民衆は現実の卑賤視された人々を拒絶しました。これがいい悪いという話ではないことは、前に書いた<映画『ヨコハマメリー』>に書いた通りであります。(←間違い、小栗判官は餓鬼になったのでした。天刑病になったのは『愛護若』だったか?)
幽霊・怨霊のたぐいが志井の人々に祟り、けっして国家レベルに向かわないのも、この理由によりますね。(←犯罪評論の朝倉喬司が言ってたのだっけなあ?忘れました。)
カルマだの「輪廻転生」だのは仏教の領域だから、仏教のほうから何か見解があってもよさそうなんですが、先の「耐震偽装自己責任論」を説いた方が仏教徒だったりするのでややこしい(あ、悪口言っちゃった)。
そういえば、小津安二郎の戦後第一作が『長屋紳士録』といって、戦災孤児がモチーフとなっているのだけれど、二作目『風の中の風見鶏』も戦争未亡人の問題に近いモチーフであった。一作目は「現実離れした御伽噺に過ぎない」といわれ、二作目など自他認める失敗作なのですが、ジャーナリスティックな視点でけっこう鋭いね。そんな「視点」何の役にも立たないけれど。
「読書」ではなく、「時評」に近いものになってしまった。