『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』

R.シュトラウス管弦楽にもなり、かのニジンスキーもバレエで演じた、いたづら者の物語。本日の「タイトル」は、ひとえにこの本のせいです。ちなみに、VOL.1が「金玉時計」、VOL.2が斎藤綾子先生の回の「オナニー」です。なぜ君たちは「オナニー」というキーワードごときに反応する?もう、どうでもいいです。
翻訳は、ドイツといったらの阿部謹也先生。「ティル・オイレンシュピーゲル」は阿部先生の前にも一度翻訳されており、両者の違いを一言でいうと、前のが「うんこする」という表現で統一されていたところが、阿部訳だと「糞をたれる」となっている(すべてではない)。この気配りが何の効果も上げていないのがかなしい。
「すべてではない」という表現通り、この16世紀に著された小咄94話からなる作品の登場人物は、嘲笑・軽蔑・露悪的表現として脱糞を繰り返す。<前近代の物語とは、近代理念やモラルとは隔絶したものであるのだから、尾篭な表現にばかり足をとられてはいけない。>はじめはそのように考え、行間から匂ってくる香ばしい悪臭を我慢しつつ読み進めたのですが、どうも「糞をたれる」行為が好きとしか思えません(作者がか、作者が育った「低地ドイツ」の文化がか、大きく「ヨーロッパ」がかはわかりません)。
そりゃあ、アジア・アフリカ・アラブ・ペルシャ・インドほか、「脱糞」話がまったくないわけではありませんが、そういうのと明らかにニュアンスが違うんです。大袈裟に言うと、西洋の、「個人」という特殊な概念の確立と深くかかわっているのではないでしょうか?スカトロジーって、そういうことなのですかね?これって、「その世界」では常識だったりして。いや、探求しようとも思いませんが。


蛇足:たとえば、教会の司教とティルが、教会の中で「糞をたれる」ことが出来るか否かで争う話がある(そして、司教は「糞をたれる」のですが)。つまり、教会という権力を貶めるアイコンなのですね。
ゲッツ板谷著『超出禁上等』の中には、天久聖一画伯描く『Dekin Boys』という傑作マンガがオマケにはいっている(というか本文のイラストなのだが)。なんきんの『スゲエ』以来の悪たれテイストの逸品です。そのある回に、蟹江敬三が<うんこ(主役)>に「おい、牛の糞」と呼びかけるヤツがありました。「Bullshit」というシャレなのですが、ニュアンスはやっぱりやわらかいですね。米食文化のせいか?
と、こうして文章で説明すると、司教とティルの喧嘩もこどもじみたものだし、あまり違いが出てこなくなってしまう。うーん・・・・(こ)。超出禁上等!

ティル・オイレンシュピーゲルのゆかいないたずら

ティル・オイレンシュピーゲルのゆかいないたずら


阿部先生の解説を含め、めっぽう面白い話なのはたしかなので、お好きなヒトはどうぞ。「愉快ないたずら」、なんて生やさしいもんじゃありませんが・・・
ノイ!

ノイ!

クラウトロック」の名盤。こちらはBGMに。