小谷野敦『恋愛の昭和史』

恋愛の昭和史
『恋愛の昭和史』は、とても面白くてためになるのですが、前日のアイ高野さん逝去の話を書きながら、ちょっと思うことができた。
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これは、日本の小説に書きあらわされた恋愛を、昭和*1というスパンで俯瞰し、現代の<恋愛至上主義>なるものに批判を下したもの。一部日本の文学に影響を与えたジッド『狭き門』など、海外の小説にも言及されるが、おおむね日本の小説の話といってよい。
<昭和史>なので、当然昭和の後半、昭和40〜60年代も範疇に入るのだが、分量としてはけっして多くはない。諸作品のクオリティが、昭和前期に比べてどうとかいう判断なのかもしれないし、まだ纏まっていない領域があるのでそれを避けたのか、編集上の都合か、理由はわからない。
そのかわりか、ラストから二番目の章が「歌謡曲の時代」と題される10頁で、ここでは昭和40年代前後の歌謡曲をテーマと絡ませている。
ここで小谷野氏は、森永卓郎『<非婚>のすすめ』の「調査」データに難色を示しているが、小谷野氏自身のサンプリングにも杜撰で恣意的なバイアスがかかっているので、お互いサマなのではなかろうか?
小谷野氏の分類によると、

「恋の歌」は、『万葉集』以来、だいたい次のように分類できる。
一、まだ合意に達しない恋、つまり片恋を歌うもの
二、恋の達成した喜びを歌うもの
三、達成した恋における相手の冷たさを嘆くもの
四、失われた恋を嘆くもの

だという。つづけて、「誰もが恋愛できるというイデオロギーの浸透の中で」、男の「一、」つまり、男の片恋の歌の欠落を指摘している。女の片恋歌には「かもめはかもめ」という「斬新な歌」があるのに、男の片恋歌はあるのだろうか?いや、ほぼ無い、という論旨だ。例外として、尾藤イサオさんの「悲しき願い」(なぜこれがカバー曲というだけで「突然変異的」と除外されるのか、理解に苦しむ*2。「歌謡曲の中の昭和史」がこの章のテーマであろうと思われるので、「訳詩」という企画性がテーマに外れる条件とはならないだろう。仮に、これが抵触すると考えると、厳密には、洋楽的影響のある楽曲・歌詞のものはすべて「突然変異」としなければ正鵠さを得ない。そして、いうまでもなくすべての歌謡曲で洋楽の影響のないものは皆無である。)、そのほかの片恋歌に近い曲は、シチュエーションとしての片恋は暗示されるに止まるので条件を満たさず(例・坂本九上を向いて歩こう」)、唯一清水健太郎失恋レストラン」が「男の片恋歌と見える」とする。

しかしこの曲は、今聴くと詞曲ともにひどく出来が悪く、男の片恋歌が珍しいためにヒットしたのだとしか思えない。

ずいぶんな言われようです。「失恋レストラン」フォローしてもしょうがないけど。
いや、そんなことより、じつは「一、」は少なくない。GSに限っても、

と、ちょっと思いついただけででてくる(いちおう、厳密に「まだ合意に達していない、つまり片恋」の歌詞の曲に限定した)。以上はヒットした有名どころであり、無名とされるものも含めれば(というか、個人的に挙げたいのだが)ヤンガーズ「マイ・ラヴ、マイ・ラヴ」、エドワーズ「クライ、クライ、クライ」、ザ・ダイナマイツ「恋は?」ボルテイジ「ナンシー・マイ・ラヴ」アウトキャスト「電話でいいから」、ガリバーズ「赤毛のメリー」レンジャーズ「赤く赤くハートが」あぁ、キリがない・・・。だいたい「歌詞」が「一、」に当て嵌まらなくとも、その歌唱性からいって、すべてのGSの歌は片恋歌だろう。
小谷野氏が、GSを「詞曲ともにひどく出来が悪く」思って除外した、ということも考えられる。あるいは、「悲しき願い」のように海外からの影響下の「突然変異」として例外としているのかもしれない。
それでは、守屋浩「僕はないちっち」井上ひろし「雨に咲く花」などはどうか?ロカビリーあがりだから例外なのだろうか?「雨に咲く花」は、<逢いたいの>という言葉遣いから、男の歌う女歌となろうが、もとまろ「サルビアの花」(オリジナルは早川義夫)は女の歌う男の歌だ。
ここまで書いて気づくのは、日本の歌謡における性別の曖昧さ、もしくは倒錯性ということと、欲望を公然と表現する変革が、必ずといっていいほど外部(海外)からの新たな影響の下で行われている事実だ*3。「恋愛の昭和史」の中に「歌謡曲の時代」を入れるのであれば、こういった日本文化の特異性へのアプローチがあってしかるべきだろう。このへんのことを深めれば、歌舞伎の造詣厚い小谷野氏の独断場となると思うのだが。やはり結論を急ぎすぎて、手を抜いてしまったのであろうか?

あらためて先の分類表を吟味すると、「一、まだ合意に達していない恋、つまり片恋」と「四、失われた恋を嘆くもの」の境界は、じつは、はなはだ曖昧なものであるのに気がつく。歌謡詞のセンテンスは、暗示されたシチュエーションを舞台にしている。橋幸夫「チェッ、チェッ、チェッ(涙にさよなら)」は、ロカビリー時代とGS時代の中間でヒットした「片恋歌」だが、これは映画の主題歌でもあり、歌の中のシチュエーションはすこし飲み込みにくい。映画は不勉強ゆえ見ていないが、おそらく、歌中の<外車に乗った>娘と主人公は色恋沙汰を演じるのであろう。そうであれば、これは「四、」だろうし、歌だけで判断すれば「一、」だ。「失恋レストラン」も、一時の恋愛の成就があった上での破局なのであろうから、「四、」と考えても不都合はない。というか、「四、」という解釈が常識的な気がするが。もちろん、小谷野氏が「一、」と解釈するを否定するものではない。そういった解釈の幅は、歌謡詞の<いい加減さ>によると思うから。


でも、まぁ、いいや。あんまりアカデミズムに歌謡曲を触ってほしくないし。

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*1:実際には明治、大正期の作品も前段として論じられている

*2:小谷野氏は、ジ・アニマルズの原曲「Don't Let Me Misunderstood」と訳詩「悲しき願い」が、歌詞内容が違うことを理由に挙げている。しかし論旨に従えば、尾藤イサオの歌う歌として批評すればすむことであり、ここに原曲云々の入る意味は見えない。アニマルズというフィルターを通さねば、尾藤イサオの歌う「悲しき願い」が語れないのであろうか?なにか、尾藤イサオに代表される歌謡曲のドメスティックさを、ピンセットかなにかでつまんでいる図が想像され、たいへん見苦しい。

*3:あるいは、「詞曲ともにひどく出来が悪い」ものにこそ、「片恋歌」の灯がともるという結論なのかもしれない。それが小谷野氏の結論であるのなら、あまたの、アカデミックな立場から歌謡曲を見下した、凡庸な見解と大差はない。「人の恋路を邪魔するものは、馬に蹴られて死ねばいい」といった感想しか浮かばない。