武者小路実篤『お目出たき人』引用

たぶん山田風太郎の『人間臨終図巻』あたりからだろう、晩年の武者小路実篤は耄碌してリピート癖のつよい文章になったように評されるようになった。それは別に間違いとも言えないが、もともとその傾向は強かった、というかそれが売り(?)の作家だったような気もする。
たまたま、実篤26歳の時の小説『お目出たき人』を何度目かの再読中、好例が見つかったので引用しておきます。コーヒー吹いた

逢いたい、どうかわってるか知らんと思う。そのとき自分は今日は金曜日だということに気がついた。自分はなかなかの迷信家だ、人知を信じない自分は運命を信じたくなる。運命に頼りきれるほどには信じていないがかなり信じている。したがってかなりの迷信家だ。打ち消しながら信じている。少なくとも気にかかる。
金曜は西洋人が忌むと自分は聞いている。それで二三年前から彼女に逢いたいときでも金曜日だとなるべく逢いに出かけないようにしている。しかしそんな迷信はわるいと思ってかえって出かけることもある、しかしちょっといい気がしない。彼女が引越してからは逢うのはちょっと遠くに行かなければならない。したがって金曜日にわざわざ出かけるのはいやだ、しかしそれは迷信だ、迷信はよくないと思って出かけたこともある。そう云うときは逢わないとかえっていいなと思うことさえある。
まして一年近く逢わない鶴に逢うのに、わざわざ金曜日に行くのはいやだなと思った。しかし逢いたい。
このとき、せっかく今まで逢わなかったのだから逢わない方が、甘(うま)くいったときにも、まずくいったときにもいいと思った。そうしてとうとう逢いにゆくのやめた。
幸あれ!

最後の「幸あれ!」がやっぱスゴイ。なかなか書けません。

自分はどうもただの空想家らしく思えていけない。何事もできず。これというおもしろいこともせず。そうして天災で若死するような気がする。これも空想だろうと思うが、自分は雷か、隕石にうたれて死ぬような気がする。
さもなければ肺病になって若死するかも知れない気がする。どうも自分はなが生きしないような気がする。しかしそうかと思うとなが生きできそうな気もする。なかなか死にそうもないと思う。しかし天災、中でも雷と隕石があぶない。

グレートな迷妄っぷり。

お目出たき人 (新潮文庫)

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