【再録】怪談・渡る世間は鬼ばかり


今日はお午過ぎに散歩に出かけました。ぽかぽかした陽気の中、路地のあちこちでは新築の工事の音がのんびりと鳴り響いています。人のいない角を折れ曲がったところで、突然ウグイス色の作業服を着てヘルメットを被った男の後姿が横ざまに現れ、私を先行するように歩き出しました。どうやら路地裏の建築現場から本通りに出た現場監督のようで、作業服は真新しく清潔で、ヘルメットも軍足もよごれひとつついていません。
時間から考えて、男は昼食を取りに食堂に向かっているのだろう、と思いました。
男は路地から現れたときから前を向いたままなので、私は男の顔をまだ見ていません。
私とその男との距離は、最初のうちすこし離れていましたが、男の歩くのが遅いのか、いつのまにか2〜3mほどに近づいていました。ふとヘルメットに注意すると、後のところにネームプレートが貼ってあり、端正な楷書で「江成和樹」と書いてあります。

私は、この男の行く先は中華料理屋に違いない、と睨み後をつけてみようと考えました。この男の入る店のラーメンは、きっと評判通り旨いに違いないと思ったのです。
ところが私鉄の駅前にたどり着き、小さな商店街を通り抜けても、男はまだ歩みを止めません。この先は、町は住宅街になってしまいます。この先に、ほんとうに評判の中華料理屋があるのだろうか?私は、この男が本物なのか不安になりましたが、男の頭はヘルメットに隠れ、短髪なのかどうかは確認できません。
ふと男の歩く速さがすこし増したように思った矢先、急に辻を左折して先行者の影がぷっつり消えました。いそいでその後を追うと、男は一軒の家の門を開けようとしています。
その家は大きな松のある瓦屋根の二階家で、手入れの行き届いているところは料亭といっしょでしたが、あきらかに普通の民家でした。男は後ろ向きのまま門を閉じ、玄関の引き戸を入って消えてしまいました。
私はほっとしたような、がっかりしたような、落ち着かない面持ちになって、夢から覚めて起き上がるように、その場を引き返そうとしたその時です。
突然、家から非常識な音量のピアノが鳴り響き、「渡る世間は鬼ばかり」のテーマソングを怒ったように独奏し始めました。
私は、なにか恐ろしい悪意が今にも襲ってきそうで、もう美味しいラーメンのことなど忘れ、一目散に逃げ出しました。
これはほんとうにあった話です、信じてください。


冥途

冥途