教育再生実行会議での曾野綾子発言抜粋

曾野綾子さんがまたやらかしたようですね。
曽野綾子さん「保育園落ちた日本死ねは自己中」「4畳半一間で暮らせば奥さん働く必要ない」

曾野は、第2次安倍内閣における教育提言を行う私的諮問機関「教育再生実行会議」に有識者委員として参加している(平成25年2013年10月末の第4次提言まで)。会議ではいつもの調子なのだけれど、いくつか委員会での発言を抜粋しておきます。
教育再生実行会議

当人が自分を教育するのだという意識を与えませんと、戦後の日本がそうでございましたように、人権というのは要求することであって、受けるものではある。こちらは与えるものではない。文句は全て政府か誰か学校に言う、そういうことではいけませんので、その辺のところも一度御議論の中に入れていただきたいと考えております。

いじめというのは定義ができないと思います。何をもっていじめるか。ある人がじっと見たからあれはいじめられたのだということができるわけでございますから、いじめは定義ができない。このような雑然としたことを頭に入れてお考えになっていただけたらと、いじめられる側としては思うのです。
そして、子供はおいれいごとというのは、実は私は嫌いでございまして、戦後一番困っているのは、みんないい子ということ。みんないい子ではありません、みんな悪い子なのです。ただし、その中にいい面もあったのです。そのような嘘みたいな言い方が通ってまいりますと、それを納得しなくなるだろうと思います。
ですから、まず第一に、いじめというのは面白いということをご承認いただきたい。いじめは、初めは面白いのです。しかし、そのうちに、だんだんいじめるということは醜いことだ、自分がいじめられたらつらいことだという客観性を持つに至ります。ですから、いじめはつらくて悪いことだと初めから言われると、私はみんなそんな偉い人なのかと思うだろうと思います。
さらに、今、体罰と暴力の話が出ているのだろうと思いますが、体罰と暴力はともに言語的表現の貧しさの結果でございます。これは相手をやっつけたいなら舌戦で罵倒したりするのが一番よろしいのでございます。これは今の学校教育が作文教育におそろしく力を入れていない、そして読書力がない、本も読まない、そういうことだろうと思います。
ですから、長い時間かかると思いますけれども、表現力を同時に強めるということをお考えいただきませんとこのことは解決しないと思うので、その辺もお願いします。

本当は私はこの手の委員会を外部に開くのは反対なのです。こういうシステムを最初に取り入れたのは、石原慎太郎氏が当時の運輸大臣になられた時だろうと思いますが、民主化を目的にしてはいても変な制度だと思いました。人間が本当に働く職場というものは、普通他人に見せないものです。いかなる流行作家といえども、自分の書斎に係の編集者を入れたら、気味の悪いものです。誰にとっても本気の職場というものはクローズにするのが当然です。しかし教育委員会だけは、時々外部の人間に公開されてもいいと思います。

私は前々からどうしてこんな簡単にできることを日本の教育はしてくださらないのだろうと思っていたことがございまして、それを3つほど申し上げます。
語学というものは、先ほどもおっしゃいましたけれども、語学をしゃべらない、その国の言葉をしゃべらない人間と言うのはないのですから、大して高級な技術ではないと思うのですけれども、語学というのは幼児期に定着するものなのです。発音その他も大きくなって発音の悪い先生にいくら習ってもいい発音にはならないのです。
私は、小さいときに全てネイティブの人から習う。私はたった3ヵ月ですけれども、ベルリッツという語学学校に行ってスペイン語を習ったことがある。そのときには、ベルリッツは高級な語学学校だと思わせたいのでしょうけれども、南米のスペイン語ではだめなので、カスティーリャ語と言われるスペインのスペイン語をしゃべる人でなければいけないというぐらい厳しかったのです。
私は小さいときに外国人から英語教育を受けたのですけれども、そこで得た知識というのは全てはっきり言うとくだらないものです。例えば「桃太郎」というと、日本では桃から生まれたというぐらいは知っているわけです。そういうものというのは、要るような要らないようなものですけれども、例えば桃太郎が桃から生まれたのような、ハンプティ・ダンプティというのはどういう人であって、どこにいたら危険な人物なのか、つまり塀の上にいたら割れるという、そういう誰でも知っているようなことをほとんど知らないままに終わる。
私はあまり大切とは思わないのですけれども、レディーファーストなどというのがありまして、先に行かされてもちっともうれしくないのですけれども、世界的にはそういうことになって、あるいは教会の中、エレベータの中では男性は帽子を取らなければいけないということ、食事のときにスープ皿を持ちあげてはいけないというようなことを今の日本でほとんどの知識人が守れていないのです。ですから、そういうようなことで減点されるというのは実につまらないことだろうと思います。単純であるがゆえに幼いときからなさっていただきたい。殊に理数科の教育は全部最初から英語でいいと思います。物理科、その他数学、算数も全部英語でやって何も困ることはないように思っております。
第2番目の精神的なポイントでございますが、学校は遊びに行くところではないのです。殊に高校、大学になったら学びに行くところでございまして、もっともっと締め上げる。つまり、大学生というのは社会からお暇をいただいてお許しくださいという、本当は働かなければいけないのだけれども、4年間したいことがありますので時間を頂戴いたしますというしせいでありまして、私の行った学校はアメリカ式だったものですから無茶苦茶に絞る、できないほど絞る。例えば週に1度ブックリポートというのを出して、英語で読めというのです。そんなのできるわけがありませんから、私は一生懸命グレアム・グリーンとかほかに翻訳があるのを探して、それをいかにも英語で読んだふりをしてブックリポートに出す。タームペーパーというのを3ヵ月に一遍とか出させられる。本当に嫌で、嫌になったから小説を書いていたというようなところもあるのでございますけれども、時間というものは、ゆとり教育もそうでございますけれども、締め上げれば出るものです。締め上げないとどんどん出ない、時間は好きなことはしないような気がいたします。
ですから、考える土台というのは、今、川合委員から大変大切なことをおっしゃっていただいて、私はいつも書いておりますけれども、教育するのは自分なのでございますから、考える土台というのはいろいろとやらなければいけない、教えられないといけないのですけれども、同時に自分自身がつくっていかなければいけないものです。私の場合は、しばしば不幸とか危険というようなものがそれでございまして、学校教育で与えられないものですから、ただ、そのようなものも無駄でないという視点はお与えになっていただいていいかと思います。
第3番目の点ですけれども、外国へ行かないという歴然とした状況にあらわれておりまして、私はここ30年ぐらいアフリカに入っているのですけれども、ときどきアフリカに行かないかというのです。極めていいかげんな誘い方です。行こうという若い編集者は10人に2人でございます。あとはみんな危なくないかと言うのです。私は危ないですと。どういう危ないか。マラリアがあって、ゲリラがあります。しかし、危なくない世の中はありませんと、非常にいじわるばあさん的な答えなのでございますけれども、危険を冒さないと人生はわからないという、例えば一つの見方で、安全がいいのというのも真実でございますが、危険を冒さないと現実を見えないということも一つの生活能力でございます。生活能力が極めて足らないのです。大体御飯がたけないのです。女の子も男の子も御飯というのは鍋でたけないのです。私、外国でたかせますけれども、米の1.5倍の水を入れればどんな鍋でもたけるのだということがわからないから御飯がたけない、御飯でなくてもパンでもいいのですけれども、そういう基本的なことができないから、生活能力がないから国外に出られない。お母さんの影響下の国内にいたいということになっております。
ですから、生活能力をつけるということ、生活のルール以外のこと。例えば余り大きな声で言えないのですけれども、いざとなったら人の台所から芋をかっぱらって食べるぐらいの精神、そういうものがないと私の行った外国は行かれない。それはいいのではないのだけれども、生きるためにはやむを得ないというような限度を少し教育の中でお披露目いただきたい。それぐらいのことで、これはみんないずれもバックグラウンドの精神の問題。

この第6回の時の発言が、いちおう3点にまとめた主張をしており、提言らしい提言となっている。その割に内容空疎だけど。自分は翻訳本をアンチョコに感想文書いてるのに「語学を叩き込め」とはどういうつもりかと思います。

先ほどどなたかがおっしゃったのですが、自分がかけがえのない人間だなどと、私はそういう感覚は全くわからなかった。自分は死なないで、どうしたら生きていていいかということでした。かけがえのない人間などと思う人がいたら気持ちの悪い人で、私はつき合わないと思います。どうやったら自殺しないでいられるか、首くくるのも迷惑だからという感じでしたね、それとお父さんとお母さんが適当に貧しければ、将来自分が稼いで親に米代ぐらいは届けなければなるまいということから自分の存在の認識を考えるのであって、かけがいのない人間だなどと思い出したらどれだけ自己評価が狂うか私にはわからないと思います。

富田茂之衆院議員(公明党)の子供の貧困対策についての発言に異論を述べ―

スウェーデンのように、全ての若者たちが大学に安心して行けるような、安心して生きられるようになりましたら、どんどん人間は堕落すると思います。そして、今、朝日新聞の記事について伺いましたが、生まれ育った環境に全く左右されないようにしたら、何を根拠に私たちは学ぶのでしょう。左右されることも私たちにとっては或る意味で財産なのです。貧しければ貧しいように、目が見えなければ見えないことをもって、虚弱であれば虚弱なりに、もちろん、できるだけ皆が生活に不自由なく体は丈夫にするようにすべきですけれども、生まれ育った環境に左右されないようにするなどということは教育に真っ向から反対する姿勢だと私は思ってまいりました。
もちろん、みんなが幸せで「安心して生きられる」ようにすべきですが、その説には私は反対です。
(注:富田に、朝日新聞ではなく、子供の貧困対策法案の条文に今のことが書いてある旨指摘され)
法文と人間生活の実感とは随分ちがいますね。

私は根性の悪い性格をしているせいか、こういう文章を拝読して、目は覚めたいと思っているのですが、目が覚められない。日本語がだんだんおかしくなります。それは何かなと思いましたら、ここにあるのは親切過ぎる教育という感じなのです。