教養ってなんだっけ?


こんにちは。トンデモない一行知識の世界 2 - 唐沢俊一のガセビアについて - 『キリンヤガ』にはンデミやンガイが出てきたりするの10月2日のコメントで、自動鐘撞き装置カリヨンのことを何の逡巡もなくカヨリンと記したdiscussaoです。誤記ではありません。10月16日の追加コメントのときまでカヨリンだとばかり思い、そう口にしてきました。なんだカヨリンって?キムタクの独身時代の彼女か?私に「京都嵐山オルゴール博物館」の説明にケチをつける資格はないね。
そういったわけで、謙遜でもなんでもなく教養とは無縁な私であります。

こう自己規定すると、新たにこういう反論がもう一人の自分から出てきます。そういう無教養な者が、それじゃあなんで例えば日本のロカビリーのカテゴライズについてブーブー文句をたれているのか(2010-06-12 - もうれつ先生のもうれつ道場)、それはやっぱり教養を身に纏いたいってことなんじゃないのか?
とすると、そういう下位文化の中でもマイナーな話は教養には成り得ないと思っているんでしょう、私は。教養とは成り得ない知識の正誤ではあるけれど、正誤は正誤だからやっぱり一言小言を言いたいということなんでしょう。知っていたところでエラクはない知識ですが。

ところで、岡田斗司夫検証blog3 - 唐沢俊一検証blogの本文と私のコメントにある宮崎哲弥の発言は<教養、教養主義は確実に滅びる傾向にある>という主旨からも、論点は教養、並びに教養を担いだりその恩恵に与ったりの権威のほうが主体となっている。どういうことかというと、教養などとは対象となる非教養的文化や権威とは無縁の層についての考察もあるだろうということだ。
つまり、「教養主義の崩壊」というのは教養主義や権威だけの問題ではなく、それまで教養とは認定されなかった下位文化の知識や非権威側の思考活動が、教養的な装い、権威的な威圧を帯びてくるということでもあるだろうという話だ。
だから私が「自分の問題にしていることは下位文化の中でもマイナーな話で、教養には成り得ない」つもりでいても、必然的に教養の範疇に入ってしまい矛盾が生じるということでもある。じっさい<(discussaoは)自分の知識、それも本から仕込んだ知識に絶対の自信を持ってるんだね。>とか<自分の知識を披瀝するのに必死だ。>とか貶されてるので、教養主義とか権威主義的だと思われてるのだろう。
そういう自省の念は棚に上げといて、すでにサブカルチャーオタク文化の中で有力とされる言説というものは、発言するそばから教養としての処遇や権威性を帯る事態に達しており、それを否定・拒絶するべき旧態の教養・権威はとうの昔に弱体化してしまっているという現在であるのだろう。知識の大衆化ってことなのだろう。
まあ、ただこの先新たに教養が再築されたとしても、自分の持っている知識およびその体系らしきものはそこに属さないだろう予測、あるいは加わりたくないような思いもある。各人がそれぞれ個別の知識体系を持っており、それを前提として知識のやり取りが出来るという、それこそ岡田斗司夫の弁ずる「オタク・エリート」の理想郷みたなものが実現して、その個人の知識体系を「教養」と名づけるのならそれはそれでアリかもしれないけれど、そういうのはホントは「教養」とはいえないもんねえ。

オルゴールのすべて (テクノライフ選書)

オルゴールのすべて (テクノライフ選書)

新教養主義宣言 (河出文庫)

新教養主義宣言 (河出文庫)

日本思想という病(SYNODOS READINGS)

日本思想という病(SYNODOS READINGS)