日本のロカビリー

「日本でのロカビリー・ブームは1956年から翌57年まで」
という珍説があるらしい。

【専門は】盗作屋・唐沢俊一136【盗作家業】
646 :無名草子さん:2010/06/09(水) 09:29:23

アメリカにおけるロカビリーのブームは1954〜1956年という驚くほどの短期間。
日本でのブームは少し遅れて1956〜1957年頃。
その後のビートルズのブレイクまでの間はロックンロール空白期間(と言うと
言い過ぎかもしれんが)になるわけだが、ジーン・ピットニーがデビューしたのは
そんな時期。同時期デビューの飯田久彦もロカビリー歌手ではない。
ビートルズがブレイクするまで、ロックンロールという音楽は一過性のブームに
過ぎないと思われていた。
当時人気だったのは、パット・ブーンなどの優等生的イメージのポップス。
アメリカではジーン・ピットニーはポップ・シンガーという認識ではないだろうか?


ロックンロールとヒルビリーが融合してできたのがロカビリー。
まったくその通りなのですが、じゃあ日本で流行っていたロカビリーがそうなのかというと、もはやロカビリーという言葉が不適切なほど無関係なのだが、ほかに代わる言葉がない。日本でロカビリーというと、ジャズ喫茶でポップスを歌うシンガー全般を指す言葉となろう。つまり、一時期洋楽ならなんでも「ジャズ」と括られたことや、1970年前後は「スワンプ・ロック」でも「プログレッシヴ・ロック」でも「ブルース・ロック」でもみんな「ニュー・ロック」で括られたような意味合いで、新型のアメリカン・ポップスに影響されたものならすべて「ロカビリー」と呼ばれたと言える。本場と似て非なるものである点で、シャンソンと並ぶ「和風変容」だろう。後生大事に「ロカビリー」の看板を外さなかった一因には、例えばカントリー&ウェスタン時代からのコンボ・バンドの形態が営業活動として使い回しが良かったせいで、音楽的内容よりも見てくれが優先されていたのであろう。
厳密に語義の通りのロカビリアンというのは、ワゴンマスターズの小坂一也や寺本圭一など数人に限られるだろう。2人ともカントリー&ウェスタン・バンドのシンガーとしてキャリアを積みながらプレスリーの影響でロックンロールの素養を身に着けており、そこが他のC&Wシンガーや平尾昌章・山下敬二郎他「ロカビリアン」と大きく異なる。とはいえ、彼らにしても1959年以降急速にポップ化しロカビリーから離れていったわけで、以後の和風ロカビリーの大半は大甘のロッカ・バラードとなり、ロックンロールのスピリッツなどというものは殆ど無くなった(ならば音楽的な意味で「日本のロカビリーは1959年に終わった」と言えるかもしれないが、今のところそういう説は、定着はもとより流布した形跡も無い)。〔注・一般的な歌謡曲歌手と区別する目的で、洋楽的な側面を持つ後のポップス歌手を「シンガー」と呼ぶことにする〕
1962年は、そういった和風ロカビリーにとっては大豊作の年で、数多くの新人がデビューした。関西ロカビリーの雄、ロック・メッセンジャーズの克美しげる、本格派ロックンロール・バンド、ブルー・コメッツの鹿内タカシ、新宿ACBの新人コンテストでプロ入りしたファイターズの倉光薫(後にカルトGSクーガーズのオルガン)、オールスターズ・ワゴンのゲスト歌手でプレスリー・フォロワーのほりまさゆき、クリフ・リチャードの線をいった紀本ヨシオ、ドリフターズの高松秀晴、ワゴン・スターズのスリー・ファンキーズ、日本版エディ・ホッジスの目方誠(後の「回転禁止の青春さ」美樹克彦、『悲しき雨音』が動画で見られる)、TV「ホイホイ・ミュージック・スクール」の司会で活躍する「ジェニ・ジェニ」鈴木やすしなどだ。
1962年はまた、チャビー・チェッカーのツイスト・ブームが邦楽にも及び、黒ずくめの藤木孝が軽妙なダンスで腰をクイクイ捻らせるものだから、老若男女(老はないか)こぞってのツイスト・ブームとなり大量のシンガーデビューに拍車がかかった。逆に言うと翌1963年デビューのシンガーが極端に少なかったのである。スイング・ウエストの沢雄一、ブルー・ジーンズの内田裕也、ブルー・ボーイズの瀬高明といったところだ。内田裕也山下敬二郎のバンドなどで古くから活躍していたが、レコード・デビューは'63年3月の「ひとりぼっちのジョニー」だった。彼は同じブルー・ジーンズのほりまさゆき、ブルー・コメッツの尾藤イサオらとともに、ロッカ・バラード全盛の流行を無視し、初期プレスリーやリトル・リチャード、チャック・ベリーなどのロックンロール・クラッシックを歌いまくっていた。この姿勢は次にくるサーフィンやリヴァプールというロック色の濃い時代になって実を結んだ。
日本のロカビリーはいつ収束したかという問題が残っているが、この1963年最大のニュース、坂本九上を向いて歩こう』=『SUKIYAKI』の世界的ヒットに影響されたような、上記ロカビリー歌手の和風的転向にそれを求められよう。とはいえスウィング・ウエストなどGS時代まで活躍したロカビリー・バンドもいるわけで、もうすこし掘り下げなければならないかもしれないが。
(参考文献・『日本ロック大系 1957〜1979』黒沢進執筆部分)

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追記
以下のやり取りがありました。

844 :discussao:2010/06/15(火) 18:11:24
>>646
>>647
の「日本での(ロカビリーの)ブームは少し遅れて1956〜1957年年頃。」
一般的には、1958年2月の「日劇エスタン・カーニバル」からブームが始まったと解説されているので
ガセネタなのでは?
また、日本でロカビリーというと、ジャズ喫茶でポップスを歌うシンガー全般を指すものであり、
厳密な本場のカテゴライズで区別してもほとんど意味はないと思います。



855 :無名草子さん:2010/06/15(火) 21:56:09
>>844
>1958年2月の「日劇エスタン・カーニバル」からブームが始まった
と言うか、ブームが過熱して日劇に進出したんでは?
ブームの始まりはもう1〜2年くらい遡ると思うんだけど



856 :discussao:2010/06/15(火) 22:52:45
>>844
日劇エスタン・カーニバル」は、ナベプロ渡辺美佐(ロカビリー・マダム)が2・8の閑な月を借りて、
これがコケたら主婦に戻るつもりで企画したもの。リハ中、山下敬二郎が舞台の下手・上手を「じょうず・へた」
と読んでいたのを聞いて、この公演はコケると目の前が真っ暗になったというエピソードもあります。
「1〜2年くらい遡る」というのはワゴン・マスターズが小坂一也や寺本圭一らをボーカルに配していたころに相当していて、
本来的な意味のロカビリアンの条件(C&Wとロックンロールの融合)にも適っているとは思うけれど、
かれらは(あちらでにわかに人気の、「C&Wの変種」)エルヴィスを模倣したのであって、ロカビリーをやっている意識はありませんでした。
マニアックな愛好家は以前から熱狂していたかもしれないけれど、「ブーム」という意味では1958年2月ってのが穏当なのでは?



860 :無名草子さん:2010/06/15(火) 23:53:46
日劇エスタン・カーニバル
渡辺美佐に手柄を横取りされちゃったけど実質的な企画者は堀威夫だったんじゃないの?



864 :discussao:2010/06/16(水) 01:49:36
>>860
渡辺美佐に手柄を横取りされちゃったけど実質的な企画者は堀威夫だったんじゃないの?

堀威夫草野昌一、鳥尾敬孝(のち渡辺美佐に交代)の三者共同らしいですね。失礼しました。
渡辺美佐はロカビリーの現場に疎く劇場との交渉やPRをしていただけだ、という説も有力ですが、
構成・演出の山本紫朗の回想によれば、ロカビリーに詳しい妹とジャズ喫茶を廻ってバンド選考をしたというし、
堀対美佐の確執の中での発言的ニュアンスがありそうです。
「手柄を横取り」っていうのは堀サイドからすればそうだとは思います(初めてドラムスを導入したロカビリーバンドのリーダーだし)。
とはいえ、ロカビリー・ブームで大躍進したのはナベプロ側なので、軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』なんかは堀、草野、鳥尾の功績
なんか一顧だにされてませんね。

という訳で、第一回日劇エスタン・カーニバルについてのデータ正誤に話題は移ってますが、話がそっちに移っていること自体、「日本での(ロカビリーの)ブームは少し遅れて1956〜1957年年頃。」がガセネタであるという主張が了承されたものと思われます。
もし私の記述の中に堀威夫のロカビリーへの関与を否定的に書くニュアンスがあるとすれば、たぶんその理由は、堀が発掘したロカビリー・スターがあの『僕は泣いちっち』守屋浩だったせいもあるかもしれない(和風の極地でしょ?『泣いちっち』じたいは好きだけどさァ)。

あがた森魚『君のことすきなんだ』収録のカバーバージョンが非常に愛着あります。


北中正和『ギターは日本の歌をどう変えたか――ギターのポピュラー音楽史』P.163

米軍キャンプやジャズ喫茶で演奏するジャズ・バンドのマネジメント業務からはじまった渡辺プロは、五〇年代前半のジャズ・ブームで影響力を伸ばし、ブームが去った後の行方を模索していたところだった。
エスタン・カーニバルでの渡辺美佐の役割は、東宝(引用者注:日劇の運営元)との交渉やPR面で、ロカビリーの現場にはうとかったという説もあるが、和田誠『ビギン・ザ・ビギン』によれば、構成・演出を担当した山本紫朗は、渡辺美佐やロカビリーに詳しい彼女の妹とジャズ喫茶を回ってバンド選びの参考にしたと証言している。
いずれにせよ、日劇で一躍人気の音楽として脚光を浴びた結果、ジャズ喫茶や自主コンサートでアンダーグラウンドに盛り上がっていたロカビリーは、芸能界の表舞台に引き出され、歌手のアイドル化現象がはじまった。

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追記
こんなのを見つけたクリームソーダとロカビリー

日本のロックの始まりは1957年のロカビリー・ブームからと言われています。正確には1956年〜1957年のブーム開始を始まりととらえるのが一般的です。 1957年にはすでに日本語のロックを追求していたグループが存在していました。

これが、「日本での(ロカビリーの)ブームは少し遅れて1956〜1957年年頃」説の素だろうか?とはいえ、上の記述は「日本のロック」開始を1956〜7年という広いスパンで表したものであり、決して「日本のロカビリー・ブームのはじまりとおわり」のことを言ってるのではない。あと「一般的」だというけれども、私が承知しているかぎりで、黒沢進北中正和などの日本ポップス史やナベプロ関連の本では1958年2月の「第一回日劇エスタン・カーニバル」をブームの開始としており疑問の残る表現。その時期というと日劇じゃない、「オリジナル」な「ウエスタン・カーニバル」が有楽町のビデオホールにて開催されており(1957年5月5日)、これにC&Wバンドではない生粋のロカビリー・バンド「ブーツ・ブラザーズ」が初めて登場したのだけれど、この時期はむしろ「第2期C&Wブーム」と称されている(第1期は1951年黒田美治、チャック・ワゴン・ボーイズの活躍期)。この日「サンズ・オブ・ドリフターズ」で山下敬二郎パット・ブーン『ドント・フォービット・ミー』を歌っていて、ま、始めっから日本のロカビリーって「ロカビリー」から逸脱していたわけです。

日本ロック大系〈上〉

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ナベプロ帝国の興亡 (文春文庫)

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君のことすきなんだ

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