ビートルズ来日公演前座(追記あり)

1.ブルージーンズ

パンフレットでのブルージーンズのラインナップは
鈴木八郎(エレクトーン)
岡本和夫
工藤文雄
石橋志郎
安達 勝

下手側中段舞台のグループがブルージーンズ。おそらく左手から鈴木八郎(エレクトーン)桜井五郎(ギター、歌手としての出演だが、ギターが弾けたのでバンド・メンバー扱いとなったと思われる)、岡本和夫(リード・ギター、帽子の人)、安達勝(ギター、客演)、石橋志郎(ベース)、後方雛壇に工藤文雄(ドラムス)。段上のポール用マイクで歌っているのが内田裕也(このときすでにマイクの首がぐらついている。今じゃ考えられないくらいの杜撰さ)。ユーヤのビートルズ風の襟なしスーツはこの時のだけのユニフォームだったのか?
加瀬邦彦著『ビートルズのおかげです―ザ・ワイルド・ワンズ風雲録』や
『エレキの神様 寺内タケシVOL.2』などによると、ビートルズ来日公演前座の直前にゴタゴタがあって1stギター寺内と2ndギター加瀬が脱退している。特に加瀬の本が寺内急病の真相を暴露してこの間の事情を詳細に記している*1。メインの2人を欠いたブルージーンズは、安達勝をトラに迎え急場をしのいだ。この後ブルージーンズは桜井五郎がリーダーになりエド・サリバンショー出演を果たすが(ええと、ということはブルー・コメッツと一緒に出演したのかなあ?)、帰国後その桜井および内田裕也が新バンド結成のため脱退、3rdギターだった岡本和夫(’65年加入)に再度リーダー譲渡がなされボーカルに田川譲二を招いて再出発したが、シングルを2枚を出すも起死回生には到らず尻つぼみとなった。

2.ブルー・コメッツ

三原綱木(ギター)
小田啓義(エレクトーン)
ジャッキー吉川(ドラム)
高橋健二(ベース)
井上忠夫(テナーサックス)

上手側中段舞台のグループ。ブルージーンズと合同で演奏している曲「ウェルカム・ビートルズ」は『青い瞳/青い渚 ブルー・コメッツ・オリジナル・ヒット集』(ジャケットの「Biue Comets '66」で表記される場合あり)収録の井上忠夫オリジナル。
前座の演奏は
1.ウェルカム・ビートルズブルーコメッツ&ブルージーンズ、尾藤イサオ内田裕也
2.のっぽのサリー/ザ・ドリフターズ
3.ダイナマイト/尾藤イサオ
4.朝日のない街/内田裕也
5.恋にしびれて/望月 浩
6.キャラバン/ブルーコメッツ
という資料もあるが、望月浩が1番目という説もあり、日によってまちまちだったのか?

この動画の音はE・H・エリックの口上から前座の演奏すべてが入っている。曲順は上記のものと同一。
ここでふたたび尾藤イサオとブルー・コメッツの関係が問われそう。そもそもコメッツが特殊なバンドで、楽隊のくせしてコーラスを取りたがる「出たがり」症が悪化してボーカル&インストゥルメンタル・グループ(「グループ・サウンズ」の最初期の呼称。福田一郎が考え出したとか)になったので、インストゥルメンタル・グループとしての比重が高く、初期のアルバムは企画モノ・インストが主だった。しかし「青い瞳(英語盤)」を3月にリリースしたコメッツと「悲しき願い」ほかのレパートリーで着実にソロ歌手活動にいそしむ尾藤は「専属歌手」や「バックバンド」といった密接な関係が切れていた(もしくは「売り方として」切ろうという動きがあった)と見ていいのでは?とはいえ、尾藤のアルバムでは引き続きコメッツが演奏しているのだが。
また、話はまたまた「そもそも」になるが、そもそもこの尾藤イサオ内田裕也ブルーコメッツ&ブルージーンズという組み合わせは来日公演前座が初めてではなく、64年発売の企画アルバム「ロック、サーフィン、ホットロッド」(東芝)で既に実現しており、この日の流れもその一貫であったはずである。

「ロック・サーフィン・ホットロッド」+「レッツ・ゴー・モンキー」

「ロック・サーフィン・ホットロッド」+「レッツ・ゴー・モンキー」

3.ドリフターズ

順番・担当を含め、パンフレットでは
荒井注(エレクトーン)
仲本工事(ギター)
加藤茶(ドラム)
いかりや長介(ベース)
高木ブー(ギター)

じっさいには当日の荒井注はエレキ・ギターを弾いて・・・というか、ドリフターズの演奏は100%カラオケなので担当楽器云々は無意味だ。おそらくカラオケも(ドリフのスタイルと大きく異なるので)ブルージーンズだかの演奏と推察され、本人たちの実演部は仲本のヴォーカルだけだろう。〔追記:見直したら、ドリフ登場の3分22秒あたり左隅にアンプ調整をするブルージーンズのベース石橋の姿が映っている。オフにしたのだろうか?とするとバック演奏はブルーコメッツかなとも思うが、聞こえてくる演奏にはリズム・ギターとリード・ギターが入っていて、逆にサックスはない。とすると、ブルージーンズの編成がバックの音として適当であり、かれらが「ドリフの演奏」を担当していたと思われる(ドラムは加藤茶だろうが)〕ドリフだけがメインステージに立てたのは、コミックバンドとしての特殊性もあったろうが、「振りだけ演奏」で掃けやすかったことも大きい。他のグループはいちおう自前アンプが必要であり、まさかビートルズ御大のヴォックス・アンプは使用できなかったろうから。

ところで、尾藤イサオは当時から評価の高い歌手で、1963年「第20回記念「日劇エスタンカーニバル・プレスリー賞」を受賞」などはネットによく引っかかるが、同年2月の「プロ・ロック・コンテスト」において「ダイナマイト」で歌手賞を受賞していることはあまり知られていない。「プロ・ロック・コンテスト」は<ロック・シンガー及びロック・バンドの質的向上と技術の養成、ならびに有望な新人の発掘を意図する、という主旨のもとに、プロで活躍しているシンガーやバンドを各界の権威が審査するというものだった。前年のツイスト・ブームが拍車をかけたロカビリー・ブームで、新人シンガー&バンドがインフレとなっていた事情もあった。
参加した14バンドは以下の通り
ワゴン・スターズ(シンガーは香川功)
プレイボーイズ(田川譲二。田川はミッキー・カーチスのボーヤからの独立)
ブーツ・ブラザース(小島秀夫
ブローキング(ジェン三木)
ポップ・コーンズ(仲本コージ)
ブルー・コメッツ(尾藤イサオ
キャラバン(瀬川洋)
オールスター・ワゴン(夏洋一)
カレッジメン(富松千代志)
ザ・レインボー(鈴木忠夫)
ブルー・ジーンズ(内田裕也。この年3月「ひとりぼっちのジョニー」でレコード・デビュー)
ファイア・ボール(和田幸子、阿部洋二)
ファンキー・キャッツ(ペア・スカンク)
ファイブ・サンズ(柚木公一。のちにコンポーザー藤本卓也となる。柚木はヴァン・ドックスがバックだった記述もあり、前後関係が不明。『カッコイイ10人〈東京ジャズ喫茶めぐり〉』が唯一柚木の歌が聴けるアルバム)
歌手賞が尾藤さん、ならバンド賞は?というと、ディキシー風の演奏も聞かせたポップ・コーンズであった。ポップ・コーンズはジェリー藤尾のバック・バンドとして結成され、仲本コージは大学に通いながらこのバンドのセカンド・ボーカルをつとめていた。この仲本コージが後のドリフターズ仲本工事であり、同バンドには高木ブーも在籍。『60年代通信 荒井注さん追悼特別企画』(http://www31.ocn.ne.jp/~goodold60net/htm_fils/news/drifters.htm リンク切れ)という初期ドリフターズの詳細な記事の下のほうにあるジャズ喫茶スケジュール表に「仲本こうじ(日吉武とパップコーンズ)」とあるのがそれで、前日は「高松秀晴&木の実ナナ桜井輝夫ドリフターズ)」だ。別のスケジュール表には「ジェリー藤尾(日吉武とパプコーンズ)」とあり、小さく「仲本コウジ」の名も記されているので、おそらくバンド・ボーイ的存在かセカンド・ギター(演奏に貢献しないガヤ的リズム・ギター、マイクの当てられない生ギターである場合が多い)&セカンド・ボーカル(主役休憩時要員)だったと想像される。
なお「高松秀晴&木の実ナナ桜井輝夫ドリフターズ)」で、木の実ナナのポジションは「専属歌手」というより「ゲスト歌手」だったのでは?64年の「ホイホイ・ミュージック・スクール」司会鈴木やすしの相方が木の実ナナであり、ドリフターズはレギュラーだった(出演期間中に小野ヤスシら主力メンバーがごっそり脱退して、後のラインナップに再編)。ナベプロとしては木の実バーターのドリフ出演だと思われ、そのための歌手&バック・バンド関係だったろうと推測の上の推測を重ねておく。高松秀晴は正真正銘の専属歌手(変な言い方だが)。上の記事にもあるように、坂本九のデビューもドリフの専属歌手から。
(このカコミは『日本ロック大系 1957〜1979』の’59〜’63年の概要文(黒沢進)を主なデータとしています。)

「専属歌手」の問題は上記だけでは足りないかなあ。『青春歌年鑑バイブル』「月影のナポリ◎森山加代子」に以下の文章がある。

>森山加代子は、札幌のジャズ喫茶『ロータリー』で歌っているところを、スカウトされて上京、水原弘率いる『水原弘とブルーソックス』の専属シンガーとなる。(中略)にしても数々の疑問はわいて来るわけで。「水原弘率いる『水原弘とブルーソックス』の専属シンガーとなる」ってことは、このバンド、水原弘はボーカルじゃなかったわけ? 彼は第一回レコード大賞の大賞歌手ですよ。その彼を差し置いて、リードシンガーになっちゃったんですか?

ようするに新人は既存のプロ歌手のバック・バンド(あるいは既存のインストゥルメンタル・グループの)「専属歌手」としてキャリアをスタートさせていたわけで、バンドの売り方が(バンド・インスト〜主役歌手の歌〜主役休憩・セカンド歌手唱歌といった)「ショーケース」的ステージングを想定したものであった。

日本ロック大系〈上〉

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俺はロッキンローラー (廣済堂文庫)

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カッコイイ10人〈東京ジャズ喫茶めぐり〉

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いとしのナナ

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クレージーだよ 奇想天外 [DVD]

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寺内タケシ脱退直前のブルージーンズの演奏あり。曲は『俺のハートは3333万3330℃』、歌うは内田裕也

*1:渡辺プロからの独立を画策していた寺内タケシが、1966年3月横浜のジャズ喫茶「ローンスター」のステージ後のミーティングにてその胸の内を明かす。「俺は今『寺内企画』という会社を作っている。このまま渡辺プロダクションにいては、俺が考えているブルージーンに変えることは無理だ。ということは、みんなの将来も保証できないということだ。新しく作る会社に移れば、みんなの将来も保証するし、給料も一人二万はアップする。(中略)悪いようにはしない。さあ、時間がないから一人一人来るか来ないか言ってくれ」この提案にメンバーは順々賛同の意を表したが、最後に残った加瀬邦彦が「(ブルージーンズを)やめさせてもらいます!」と答えたのに対し寺内は即座に「この話はなかったことにする」と言って帰ってしまい、次の日の仕事―クレイジーキャッツの映画『クレージーだよ 奇想天外』出演に遅刻してあらわれ、その場で結核に罹った旨告白しバンドおよびナベプロから離脱する。加瀬がブルージーンズを辞めると発言したのは突発的な感情ではなく、ブルージーンズのような「エレキ・バンド」ではなくビートルズみたいな自分のグループを作りたくて半年前から悶々としていたことによる。しかし寺内離脱のせいでバンドは加瀬をリーダーとして存続を強制されてしまった。先の『奇想天外』同時上映の『アルプスの若大将』にもブルージーンズが出演しているが、寺内タケシはいない。これが、寺内脱退後事務所命令で存続させられ、しかし2ヶ月しか続かなかった「加瀬邦彦とブルージーンズ」の貴重な(唯一の?)記録と思われる。5月頃に「加瀬とBJ」にビートルズ来日公演前座の仕事が入る。これにより、ブルージーンズにいる限りビートルズの来日ステージを見れないことが決定的となり、とうとう加瀬はブルージーンズ脱退に踏み切った。というのが加瀬本の概略。そんな直前での前座決定の不自然さや加瀬の直前の脱退が了承された奇異さは残るが、そういった杜撰さも当時の業界のリアリティだったのかもしれない。